塩川喜信
塩川 喜信(しおかわ よしのぶ、1935年6月27日[1] - 2016年7月30日[2])は、農業経済学者[3]。元全日本学生自治会総連合(全学連)委員長。元東京大学農学部農業経済学科助手。トロツキー研究所所長。
日本のトロツキズム運動創生期の中心メンバーであり、東大生時代には全学連委員長として学生運動を指導した。東大農学部助手時代には東大闘争や臨職闘争に参加した。
経歴[編集]
神戸生まれ、東京・中野出身[1]。4歳の時に父親を山での遭難事故で亡くす。敗戦までを軍国少年として過ごす[4]。成蹊中学校3年生の6月、英語教師・山西英一の影響で政治意識に目覚める[5]。成蹊高校を経て、1954年東京大学文科II類に入学[4]。東大では教養学部自治会執行委員、文学部学友会委員を務め[6]、同期・学友には大江健三郎、柴田翔、廣松渉、折原浩などがいた[4]。2年生になってから授業料値上げ反対の学生運動に関わるようになり、1956年には東京都学生自治会連合(都学連)執行委員、全日本学生自治会総連合(全学連)メンバーとして砂川闘争に参加して警官隊と衝突した[7][1]。1957年7月に都学連委員長としてアメリカ大使館前で安保廃棄を要請する抗議デモを指揮している時に第1回目の逮捕[1][8]、1958年に第2回目の逮捕を経験している[1]。日本共産党に入党していたが[4]、ハンガリー動乱に大きな衝撃を受け、トロツキーの翻訳者である山西に話を聞きにいってトロツキズムに接し、西京司らの日本革命的共産主義者同盟(革共同)に参加[9]。社会主義学生同盟(社学同)の革共同支持派に所属した[10]。1958-1959年の勤評反対闘争、59年の警職法改悪反対闘争などの学生運動を指導した[4]。
1958年12月10日、日本共産党から除名された学生らが社学同を基盤に共産主義者同盟(ブント)を結成[11]。革共同系の塩川らを中心とする都学連グループも加わっていたが[12]、発足当初から革共同派のセクト主義や加入戦術、第四インターナショナルやソ連への評価の違いから内部闘争が生じていた[注釈 1]。12月13日の全学連第13回大会では革共同系が全学連の主導権を握り、塩川が都学連委員長との兼任で全学連委員長に就任した[11][9]。しかし翌1959年6月の社学同第4回大会ではブント系が社学同の主導権を握り[14]、翌日の全学連第14回大会で全学連の主導権を奪い返し、塩川は委員長職を退任した(新執行部は唐牛健太郎委員長、清水丈夫書記長)[15][11]。その翌日開かれたブント第2回大会で革共同メンバーはブントから離脱した[16][15]。社学同執行部から追放された塩川ら革共同関西派系は社学同左翼反対派(レフト)を結成した[10][14]。
1960年3月、東京大学文学部東洋史学科卒業[17]。安保闘争後は革共同第四インター派(JRCL)の指導部となったが、1963年頃にJRCLから離れ[4]、第四インターとしての活動をやめている[18]。1966年9月、東京大学大学院農業経済学専門課程博士課程を修了、1966年11月から1996年3月に定年退官するまで東大農学部農業経済学科助手を務めた[17]。全共闘運動の際には助手共闘の一員として東大闘争に参加し、雑誌『情況』等に論文を発表した[10]。1970年から1980年代半ばまで臨職闘争に参加し[注釈 2]、1974年5月に臨職闘争に関連して3回目の逮捕を経験している[1]。後にインタビューで助手共闘よりも「ぼくにとってはその後の臨職闘争の方が意味が大きかったな。」と発言している[19]。
1976年神奈川大学経済学部非常勤講師[17]。1980年ポーランドで「連帯」が活動を開始すると「ポーランド資料センター」の結成に参加[1][20]。1990年トロツキー没後50周年の国際シンポジウム事務局長[6]、1990年から4年間フォーラム90s事務局長[1]、1991年トロツキー研究所を結成し初代所長に就任。2002年から2006年社会理論学会会長[6]、2005年ウェブサイト「ちきゅう座」編集長[注釈 3]、2009年同運営委員長、2012年から亡くなるまで同監事を務めた[22][1]。その他にも60年安保闘争経験者を中心とする「9条改憲阻止の会」の呼びかけ人、実行委員[6]、全学連委員長時代の書記長である土屋源太郎が中心になった「伊達判決を生かす会」の共同代表[1]、「警察・検察の不法・横暴を許さない連帯運動」呼びかけ人[23]、現代史研究会顧問[24]、2010年4月24日に行われた「塩見孝也君生前葬」の葬儀委員[25]を務めるなどの活動を行った。
2016年7月30日、肺炎のため都内の病院で死去、81歳[2][4]。
人物[編集]
新時代社・週刊『かけはし』編集部の国富建治は、「彼を狭い意味での「トロツキスト」として性格づけることはできないものの、スターリニズムの犯罪をえぐりだし、ロシア革命のもう一つの可能性を追求する上で、トロツキーの提起した理論的・実践的諸課題を今日的に再評価することの必要性については、基本的に同意していたことは間違いないだろう。」と述べている[4]。
伊達判決を生かす会共同代表の土屋源太郎は、1956年に初めて会った時の第一印象について、「明るくてなんとなくさわやかで美青年、当時の活動家にはないタイプに思えました」と述べている。塩川が都学連執行部として大学のオルグを担当したときには「学芸大は女子学生も多く塩川ファンが多く大変もてました。」とも述べている[8]。
著書[編集]
- 単著
- 『世界の棉花経済』(アジア経済研究所、1971年)
- 共著
- 『ポーランド革命の弁証法』(川上忠雄、加藤一夫、井汲卓一共著、稲妻社[ブックレット稲妻]、1982年)
- 『全共闘三〇年――時代に反逆した者たちの証言』(荒岱介、藤本敏夫、鈴木正文、荘茂登彦、神津陽、前田裕晤、成島忠夫、望月彰、吉川駿、塩見孝也、田村元行、小西隆裕、最首悟、内田雅敏、村田恒有共著、実践社、1998年)
- 編著
- 『高度産業社会の臨界点――新しい社会システムを遠望する』(編、社会評論社、1996年)
- 『新左翼運動40年の光と影』(渡辺一衛、大藪龍介共編、新泉社、1999年)
- 『沖縄と日米安保――問題の核心点は何か』(編集、社会評論社[ちきゅう座ブックレット]、2010年)
- 訳書
- K・モゼレフスキ、J・クーロン『反官僚革命――ポーランド共産党への公開状』(訳・解説、柘植書房、1973年)
- ヤツェク・クーロン、カロル・モゼレフスキ『ポーランド共産党への公開状――反官僚革命』(柘植書房、1980年。1973年刊行の増補版)
- エルネスト・マンデル『トロツキーの思想』(柘植書房、1981年)
- 分担執筆
- 東大全学助手共闘会議編、渡辺眸撮影『東大全共闘――われわれにとって東大闘争とは何か』(三一書房、1969年)
- 情況編集委員会編『大学叛乱の軌跡――論文集成』(情況出版、1975年)
- 天野恵一、池田浩士編『思想としての運動体験』(社会評論社、1994年)
- 情況編集委員会編『全共闘を読む』(情況出版、1997年)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ a b c d e f g h i j ちきゅう座運営委員会/現代史研究会 (2016年10月28日). “塩川さんを偲ぶ会のお知らせ:「学生運動の歴史と砂川から沖縄―塩川喜信さんを偲んで」”. ちきゅう座. 2016年12月14日確認。
- ↑ a b “塩川喜信さん死去 元全学連委員長”. 朝日新聞デジタル. (2016年7月31日). オリジナルの2016年7月31日時点によるアーカイブ。 2016年12月13日閲覧。
- ↑ 日外アソシエーツ編集部編『人物レファレンス事典 昭和(戦後)・平成編 あ-す』日外アソシエーツ、2003年、1192頁
- ↑ a b c d e f g h 国富建治. “追悼 塩川喜信さん”. 日本革命的共産主義者同盟機関紙誌『かけはし』2016年8月15日(第2432号). 2016年12月13日確認。
- ↑ 『全学連と全共闘』30、46頁
- ↑ a b c d 事務局 (2007年9月12日). “「私」と戦後日本の社会運動~第1章~”. ピープルズ・プラン研究所. 2016年12月13日確認。
- ↑ 『全学連と全共闘』32-35頁
- ↑ a b 土屋源太郎 (2016年10月29日). “【追悼】[塩川喜信] 砂川から六〇年、共に歩む ――塩川喜信を偲ぶ”. ちきゅう座. 2016年12月14日確認。
- ↑ a b 『全共闘三〇年』242-243頁
- ↑ a b c 板橋真澄「塩川喜信」『戦後革命運動事典』118頁
- ↑ a b c 高木正幸『新左翼三十年史』土曜美術社、1988年、42頁、222頁
- ↑ 『全学連と全共闘』63頁
- ↑ 『ブント私史』78-80頁
- ↑ a b 蔵田計成「社会主義者学生同盟」『戦後革命運動事典』124頁
- ↑ a b 『ブント私史』84頁
- ↑ 「革共同のブント批判」『流動』1978年2月号(第10巻2号)、流動出版、1978年2月1日発行、69-70頁
- ↑ a b c 塩川喜信『高度産業社会の臨界点――新しい社会システムを遠望する』社会評論社、1996年、251頁
- ↑ 『全共闘三〇年』246頁
- ↑ a b 『全共闘三〇年』240-241頁
- ↑ “塩川喜信さんを偲ぶ会 10・29 明治大学で”. 革命21機関紙『コモンズ』101号(2016.11.10). 2016年12月15日確認。
- ↑ 坂井定雄 (2010年10月15日). “書評:塩川喜信編集『沖縄と日米安保―問題の核心点は何か』”. ちきゅう座. 2016年12月13日確認。初出は新聞通信調査会『メディア展望』2010.8.1(第583号)(PDF)
- ↑ ちきゅう座運営委員会 (2016年7月31日). “訃報 塩川喜信さんのご逝去”. ちきゅう座. 2016年12月13日確認。
- ↑ “呼びかけ人 (07.6.20現在)”. 警察・検察の不法・横暴を許さない連帯運動. 2016年12月13日確認。
- ↑ “2010/6/5 沖縄・日米同盟を語る-60年安保闘争から50年”. ちきゅう座 (2010年6月1日). 2016年12月13日確認。
- ↑ 『全学連と全共闘』236頁
参考文献[編集]
- 塩川喜信(インタビュー)「「助手共闘」のこころざしをつらぬいて」、荒岱介、藤本敏夫ほか共著『全共闘三〇年――時代に反逆した者たちの証言』実践社、1998年、239-252頁
- 島成郎、島ひろ子『ブント私史――青春の凝縮された生の日々 ともに闘った友人たちへ』批評社、2010年(1999年刊行の新装増補改訂版)
- 戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年
- 伴野準一『全学連と全共闘』平凡社(平凡社新書)、2013年