田川和夫
田川 和夫(たがわ かずお、1932年[1] - )は、新左翼活動家。元日本共産党港地区委員会副委員長[2]。
経歴[編集]
茨城大学在学中、民青に加盟。日本共産党港地区委員会指導者として60年安保闘争に参加[1]。港地区委員会は全学連による1959年の11・27国会突入闘争を受けて「プロレタリア革命の勝利のために公然たる党内闘争を展開せよ!!―港地区委員会は声明を発する」を発表して党中央を批判し[3]、1960年3月に共産主義者同盟(第一次ブント)に集団加盟した[1]。これにより学生中心のブントは労働者の同盟員を獲得した[3]。
1960年夏の第一次ブント分裂の際には、青木昌彦、清水丈夫ら全学連書記局メンバーによる「プロレタリア通信派」(プロ通)に所属した[1]。1961年2月に林紘義と分派宣言を行い「共産主義者同盟共産主義の旗派」(共旗派)を結成し、革共同を批判した[1][4][5]。1961年12月に分派闘争の中止と日本共産労働党の結成を呼びかけ、日本共産労働党結成準備会の委員長となった[4]。1962年4月に日本共産労働党を結成して委員長となったが、この大ブント構想は失敗に終わった[1]。
1963年4月の革共同第三次分裂(革マル派と中核派に分裂)時点で中核派に加盟し、その政治局員となった[1]。中核派では労働運動の指導を担当し、1969年に非公然指導部が分けられた際には公然指導部の幹部に残り、敵対する革マル派からは二度にわたって襲撃を受けた[6]。1970年代半ばに中核派を離脱[2]。立花隆によれば、1972年から73年にかけて労働運動の進め方を巡って内部分裂が起き、その時期に離脱した。革マル派が発表した中核派の内部文書によると、田川は組合主義・合法主義の運動を主張し、革マル派との内ゲバに反対していたという[6]。田代則春によれば、1973年3月26日に闘争方針に異を唱えたため除名処分となった[7]。
著書[編集]
- 『日本共産党史――神格化された前衛』 現代思潮社、1960年
- 『日本共産党史』 現代思潮社、1965年(新版)
- 『戦後日本革命運動史 第1 戦後革命の敗北』 現代思潮社、1970年
- 『日本革命運動史 戦前篇 1』 青年社、1970年
- 『戦後日本革命運動史』1・2 現代思潮社、1971年
脚注[編集]
- ↑ a b c d e f g 板橋真澄「田川和夫」、戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、176-177頁
- ↑ a b 絓秀実、井土紀州、松田政男、西部邁、柄谷行人、津村喬、花咲政之輔、上野昂志、丹生谷貴志『LEFT ALONE――持続するニューレフトの「68年革命」』明石書店、2005年、100-101頁
- ↑ a b 板橋真澄「日本共産党港地区委員会」、戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、217頁
- ↑ a b 社会問題研究会編『全学連各派――学生運動事典 増補改訂'70年版』双葉社、1969年、108-109頁および全学連関係組織図
- ↑ 我々の闘いの軌跡――「共産主義の旗」派――1961年の闘い 労働の解放をめざす労働者党
- ↑ a b 立花隆『中核VS革マル(上)』講談社(講談社文庫)、1983年、278-279頁
- ↑ 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、293-294頁