小島昌光

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小島 昌光(こじま まさみつ?、1938年/1939年 - 2023年2月23日)は、新左翼活動家。筆名は織田進[1](おだ すすむ?)。

経歴[編集]

東京都立日比谷高等学校在学中に政治活動を開始した[1]。小島を中心とした日比谷高校グループは民青班であったが、平和共存路線に疑問を持ち、トロツキスト太田竜の理論的影響下に入った[2]。高校卒業後は東京大学に入学[1]。1958年に第四インター派として教養学部自治会委員長に選出された。副委員長にはブント西部邁が選出された[3]。太田竜が結成した国際主義共産党(ICP)に参加し、社会党への加入活動を展開した[1]。1959年5月に社会党学生党員を中心に学生運動民主化協議会(学民協)を結成し[4]、書記長に選出された。議長には佐々木慶明が選出された[5]。のち東京学芸大学に転籍。三多摩で社会党への加入活動を展開し、三多摩社青同を組織した[1]

その後、1968年に再建された日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)に中央指導部として参加し、特に理論活動で活躍した[1]。1969年5月31日、大阪教員組合主催の“沖縄奪還大教組全員集会”に第四インター系の「国際主義高校生戦線」のメンバーを含む約210人の反戦高校生が主催者の制止を破って乱入し、一時演壇を占拠するという事件が発生。高校生の活動を非難する西京司岡谷進香山久ら旧関西派と、評価する酒井与七、小島昌光ら中央政治局が対立。酒井らが多数派を形成し、第四インターの指揮権を掌握した[6][7]。1980年代末の第四インター分裂後は国際主義労働者全国協議会(NCIW)に参加した[1]

1988年に桐原書店に入社し、後に社長を務めた[8]。2007年3月に社長を退任した[9]。2008年に桐原書店元役員の前田道彦らといいずな書店を設立した[10]

2008年秋に脳出血で倒れ、体の自由を失ったが、組織活動を継続した。コロナパンデミック後はリモート会議への参加も困難になり、組織活動への復帰がかなわないまま、2023年2月23日に腎機能不全のため満84歳で亡くなった[1]

著書[編集]

  • 『日本共産党批判』(沢村義雄共著、新時代社[国際革命文庫]、1974年)
  • 『社会党・社青同・協会派批判』(西山次郎、槇慎二共著、新時代社[国際革命文庫]、1975年)
  • 『三多摩社青同闘争史――ひとつの急進的青年運動の総括』(織田進著、新時代社[国際革命文庫]、1976年)
  • 『北方領土と共産主義―真実の歴史の復権―』(織田進著、新時代社[国際革命文庫]、1978年)
  • 『なにを いかに学習すべきか――マルクス主義の理解のために(上)』(藤原次郎、織田進ほか共著、新時代社[国際革命文庫]、1979年)

出典[編集]

  1. a b c d e f g h 国際主義労働者全国協議会(NCIW)「小島昌光同志を追悼する」『かけはし』第2765号、2023年5月29日
  2. 第二章 大衆運動へ ― 学生の大衆的左傾化とトロツキズムの浸透」日本革命的共産主義者同盟小史
  3. 西部邁『六〇年安保――センチメンタル・ジャーニー』文藝春秋、1986年
  4. 社会問題研究会編『増補改訂'70年版 全学連各派―学生運動事典―』双葉社、1969年、163頁
  5. 霧山衛「学民協の四ヶ月」一点突破・全面展開
  6. 板橋真澄「酒井与七」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、104頁
  7. 国富建治「第四インター派の「内ゲバ」主義との闘い」いいだもも、蔵田計成編著『検証内ゲバ Part2――21世紀社会運動の「解体的再生」の提言』社会評論社、2003年、219-221頁
  8. 『会社総鑑 : 未上場会社版 2000年版』日本経済新聞社、2000年
  9. 桐原書店、会長、社長が交代 前期決算は減収減益に」文化通信、2007年4月18日
  10. KOJIMACHI WEEKLY vol.44PDF東京麹町ロータリークラブ、2012年1月23日

関連文献[編集]

  • 小島昌光「未来は開かれている--発展する三多摩社青同の歩み」『月刊社会党』第84号(日本社会党中央本部機関紙局、1964年)
  • 小島昌光「闘いの記録 」『日韓闘争――総括と記録――』(日本社会主義青年同盟東京地区本部教宣部、1965年)
  • 村岡到編『日本共産党との対話』(稲妻社、1982年)
  • 江藤正修編『資料集 戦後左翼はなぜ解体したのか』(同時代社、2006年)