所感派

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

所感派(しょかんは)は、1950年1月6日コミンフォルム批判を契機として日本共産党が分裂した際の多数派。徳田球一野坂参三伊藤律志田重男など。徳田派徳田主流派徳田分派徳田・野坂分派とも。反主流派の国際派と対立した。宮地健一によると党員の90%、専従の70%[1]渡部富哉によると党内の7割を所感派が占めていた[2]と指摘されるが、多くの党員は徳田たちが「分派」だとは思っていなかったためである。

概要[編集]

1950年6月6日に公職追放された日共中央委員24名の内、長谷川浩伊藤憲一伊藤律春日正一紺野与次郎松本一三松本三益野坂龍野坂参三佐藤佐藤治志田重男白川晴一高倉輝竹中恒三郎徳田球一の15名が所感派の立場を取った。伊藤(憲)、春日、野坂(参)、高倉、徳田の5名は衆議院議員。公職追放が行われた後、所感派主導の党組織は以下のような三本建ての構成となった[3]

その他の党員一覧[編集]

人民文学
歴史学者

脚注[編集]

  1. コミンフォルム判決による大分派闘争の終結 宮地健一のホームページ
  2. 伊藤律研究会-50年代の日本共産党――あるいは新左翼の源流① ちきゅう座
  3. 津田道夫「解説」、小山弘健『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年、310頁

関連項目[編集]