大屋史朗

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大屋 史朗(おおや しろう[1]1926年 - 1978年)は、トロツキスト[2]、医師。筆名は西京司沢村義雄[注 1]日本共産党京都府委員。日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)の指導者。

経歴[編集]

京都府出身[4]。1943年旧制第三高等学校理科乙類入学[5]。1945年同卒業[6]。1950年第8回医師国家試験合格[7]京都大学医学部卒業[注 2]。京都大学医学部外科学教室(旧制大学院)を経て[注 3]、医療法人健康会が経営する南病院に勤務[12]。医療法人健康会理事[13]、第2南病院院長[14][15]大屋病院院長[16]

1945、6年に日本共産党に入党し、50年問題では国際派に所属して除名された。六全協後に復党し[17]、京都大学職員組合細胞で頭角を現した[3]。六全協後の党内の混乱の中で岡谷進らと国際共産主義運動史の検討を開始し、1956年10~11月頃にトロツキーの著作の翻訳者である山西英一と連絡を取った[17]。こうして1956年末よりトロツキズムの立場から共産党第7回大会に向けた党章論争に積極的に参加し[18][注 4]、共産党内部の党内闘争に一定の思想的・理論的影響を与えた[19]。1957年[18]に京大職組細胞の周辺で持たれていた「三月書房の学習会」に小山弘健が機関紙『反逆者』を持ち込んだことで内田英世・富雄兄弟を中心とする群馬グループのことを知った。1957年3月頃に東京太田竜黒田寛一と会い[17]、同年4月に日本トロツキスト連盟(同年12月に日本革命的共産主義者同盟に改称)に加盟した[19][注 5]

公然と「ハンガリア革命支持」「平和共存論批判」を主張していたにもかかわらず[17]、1957年夏の共産党京都府党会議で京都府委員に選出された[18]。西や岡谷ら関西グループはトロ連に遅れて参加したが、西が共産党京都府委員という重要なポストを占めていたため影響力は大きく、その人脈を通して関西に組織的基盤を広げた[2][20]。1957年12月の京都府党会議で誰一人の反対もなく、第7回大会の代議員に選出された[17][21]。1957年12月に「プロレタリア世界革命」や「プロレタリア独裁-暴力革命」を主張した「レーニン主義の綱領のために」(沢村義雄名義。いわゆる「沢村論文」「沢村意見」)を京都府委員会に提出し、誰一人の反対もなく、1958年1月12日付の京都府委員会党内機関紙『府党報』に掲載された[17][19][21]。1958年6月になって「スターリニスト官僚」から沢村論文は「トロツキスト的」で「反マルクス・レーニン主義的」だとして攻撃が開始され、同年7月に京都府委員会から警告処分(理論活動停止)を受け、第7回大会の2日前に大会代議員権を剥奪された[21]。第7回大会後、京都府党会議で府委員の大屋に対する罷免カンパニアが組織され、旧所感派河田賢治が府委員長に就任した[22][23]。1958年10月に京都府党会議の2日前に京都府委員を罷免された[21]

1958年7月にトロツキズムを掲げパブロ派を支持する太田派と、トロツキズムは批判的に摂取すべきとする黒田派が対立し、太田派は革共同を脱退して関東トロツキスト連盟を結成した(革共同第一次分裂)[24][25]。このとき西、岡谷は中間に立った[26]。太田派が脱退した後、キャノン派路線の下に第四インターナショナルへの参加を目指す西ら多数派の関西派と、「反帝・反スタ」を掲げ「革命的マルクス主義グループ」を名乗る少数派の黒田派が対立する[24][25]。太田脱退後に組織が壊滅状態に陥ったため、関西派は機関紙『プロレタリアート』を発刊した[18]。1958年12月に関西派は中央書記局及び中央機関紙『世界革命』編集局を京都に移し、機関誌『第四インターナショナル』を発刊した[18][27]。1959年に黒田が民青の情報を警視庁公安に売ろうとして未遂に終わっていたことが発覚する。同年8月の革共同第1回全国大会で中央書記局は事件の中心人物大川の除名、黒田の一定期間の活動停止処分を提案するつもりだったが、黒田派は大会2日目に退出して日本革命的共産主義者同盟全国委員会を結成した(革共同第二次分裂)[18]

革共同関西派の指導者として、60年安保闘争では全学連反主流派と行動を共にした[3]。1960年11月に革共同関西派と第四インターナショナル日本委員会の多数派が合体して、第四インターナショナル日本支部・日本革命的共産主義者同盟を結成した。1965年2月に日本革命的共産主義者同盟と国際主義共産党が合体して、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)を結成した。委員長に太田竜、書記長に酒井与七、政治局員に西京司、岡谷進らが選出された[27]。1969年5月31日、大阪教員組合主催の“沖縄奪還大教組全員集会”に第四インター系の「国際主義高校生戦線」のメンバーを含む約210人の反戦高校生が主催者の制止を破って乱入し、一時演壇を占拠するという事件が発生する。高校生の活動を非難する西、岡谷、香山久ら関西派と、評価する酒井与七、小島昌光ら中央政治局が対立。酒井らが多数派を形成して第四インターの指揮権を掌握した[28][29]。西は70年代半ばには指導者の位置から退いていたと推測される[3]

1975年に対馬忠行埴谷雄高ら文化人が内ゲバの停止を呼びかけた「革共同両派への提言」の発起人の一人[30]。1978年に亡くなったとされるが[2]絓秀実ほか『LEFT ALONE』(明石書店、2005年)の脚注は「1926~78?」としている[3]米澤鐡志『原爆の世紀を生きて』(アジェンダ・プロジェクト、2018年)は「彼は大屋病院院長としての激務の中で癌に蝕まれ、一九八〇年四月に逝った」としている[12]。酒井与七は『週刊かけはし』に「二〇〇〇年春にわれわれの運動の中心的創始者である大屋史朗(西京司)の没後二十周年の集いがあり」と記している[31]

人物[編集]

共産党所感派の「極左冒険主義」を批判する中でトロツキーを読み始めたという経験を持ち、京都府学連による1958年の勤評反対闘争での警察との衝突を「極左冒険主義」として批判し[32]、60年安保闘争では「労学提携」の立場から三池闘争をより重視した[33]。一時的に塩川喜信委員長の下で全学連の主導権を握った第四インター派が急進主義的なブントに全学連の主導権を奪われ、70年代半ばまで少数派に留まったのは、西ら関西派指導部の「反急進主義」「労学提携」の立場が急進的学生運動の高揚の中で「右派」と捉えられたためという見方も存在する[32]。1969年に高校生運動の評価をめぐり関西派と中央政治局が対立。学生インターは中央政治局を支持し、その後、急進的学生による指導部が形成された。国際的にもこのような対立が起きており、1969年4月の第四インターナショナル第九回世界大会では、五月革命文化大革命などの評価をめぐり論争が展開された。西は文革と紅衛兵を否定して劉少奇派を相対的に評価する立場からこの論争に参加した[34]

1961年に構造改革派として共産党を除名された原爆被爆者/語り部の米澤鐡志は、1961~1969年の南病院時代に印象に残る人物として職場の仲間だった大屋を挙げている。1957、8年頃に共産党京都府委員会の学生対策部長だった大屋は事あるごとに暴力革命を唱え、「沢村論文」を契機に大屋グループと対立関係になったので「小ブル急進主義者」ぐらいにしか思っていなかったが、共に働く間にそれまでの印象が全く変化したという[12]

堀川病院問題・南病院問題[編集]

1961年10月に民医労民医連院所管理責任者の統一団交が行われた際、平田管理委員(上京病院事務長)が個別交渉を主張したため団交が紛糾した。その中で民医労交渉委員の名簿にトロツキストの大屋中央委員(南病院医師)がいることがわかり、平田委員は「大屋中央委員に参加してもらっては困る」として団交を拒否し、一方的に席を立った。11月に民医労は団交拒否に抗議。大屋中央委員の属する南ブロックは支部大会を開き、「思想・心情の自由を冒した問題」だとして抗議活動を行った。また民医労堀川病院支部は執行委員会を開き、「平田発言―統一団交拒否、大屋交渉委員否認―は労働組合活動の自由と権利に対する不当な、しかも分裂を策する活動である」とする態度を決定した。堀川病院支部と南病院支部は民医労を脱退し、12月に堀川病院は民医連を脱退した。一方、南病院は病院建設計画や京都府医師会長選挙をめぐって京都民医連と対立した。京都民医連は南病院と伏見診療所に脱退要請を決議し、1966年2月にこの2院所と内浜診療所が京都民医連を脱退した[8]

著書[編集]

単著[編集]

  • 沢村義雄『レーニン主義の綱領のために――57年日本共産党党章草案への若干の原則的批判』 新時代社、1960年/新時代社(国際革命文庫)、1972年
  • 西京司『日本トロツキズム運動の形成――西京司論文集』 柘植書房、1976年

共著[編集]

  • 沢村義雄、織田進『日本共産党批判』 新時代社(国際革命文庫)、1974年

訳書[編集]

  • 『トロツキー選集 第10巻 第四インターナショナル』 対馬忠行編、大屋史朗ほか訳、現代思潮社、1963年/現代思潮新社、2008年
  • 『トロツキー選集 補巻1 偽造するスターリン学派』 対馬忠行編、中野潔、大屋史朗訳、現代思潮社、1968年/現代思潮新社、2008年
  • トロツキー『第四インターナショナル』 大屋史朗訳、現代思潮社(トロツキー文庫)、1971年
  • トロツキー『ヨーロッパとアメリカ――帝国主義に関する二つの演説』 大屋史朗、西島栄、坂本透、湯川順夫訳、柘植書房、1992年

分担執筆[編集]

  • 『新批判』編集委員会編『中国文化大革命――批判と分析』 新批判社、1969年
  • 新時代社編『討論・中国をどう見るか――中国文化大革命の分析と批判』 新時代社、1979年

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 『戦後革命運動事典』の「西京司」の項目では筆名・大屋史郎[2]。『LEFT ALONE』 脚注の「西京司」の解説では筆名・大屋史朗[3]
  2. 『増補改訂'70年版 全学連各派』では京都大学卒業[4]。『民医連医療』1991年10月号では京大医学部出身[8]
  3. 1955年5月1日時点[9]及び1957年5月1日時点で在籍[10]。1957年の論文では京都大学医学部外科学教室第2講座(指導:青柳安誠教授)に所属[11]
  4. 共産党第7回大会は1957年夏に予定されていたが、1957年12月、1958年2月と延期され、1958年7月末に開催された。
  5. 同時に他2人が関西でトロ連に加盟した[18]

出典[編集]

  1. 大屋, 史朗 Web NDL Authorities (国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス)
  2. a b c d 穂坂久仁雄「西京司」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、205頁
  3. a b c d e 絓秀実、井土紀州、松田政男西部邁、柄谷行人、津村喬、花咲政之輔、上野昂志、丹生谷貴志『LEFT ALONE――持続するニューレフトの「68年革命」』明石書店、2005年、96頁
  4. a b 社会問題研究会編『増補改訂'70年版 全学連各派――学生運動事典』双葉社、1969年、327頁
  5. 官報 1943年04月17日
  6. 財界評論社編『旧制高等学校物語 第3』財界評論社、1965年、403頁
  7. 「國家試瞼--第8回医師國家試験合格者」『日本医師会雑誌』第24巻第11号、1950年11月、1038頁
  8. a b 阪田敏郎「京都・堀川病院問題から何を学んだか」『民医連医療』1991年10月号/第231号
  9. 『京都大学一覧 昭和29-30年』京都大学事務局庶務課編集・発行、1957年、641頁
  10. 『京都大学一覧 昭和31-32年』京都大学事務局庶務課編集・発行、1958年、819頁
  11. 伊豆藏健、城谷均、池田均、大屋史朗「外科的侵襲を加えた肺壊疽の4例」『日本外科宝函』第26巻第2号、1957年3月
  12. a b c 米澤鐡志『原爆の世紀を生きて――爆心地からの出発』アジェンダ・プロジェクト、2018年、112-113頁
  13. 『京都年鑑 1971年』夕刊京都新聞社、1970年、135頁
  14. 『京都年鑑 1976年』夕刊京都新聞社、1975年、335頁
  15. 『京都年鑑 1978年』夕刊京都新聞社、1977年、177頁
  16. 『京都年鑑 1981年』夕刊京都新聞社、1980年、338頁
  17. a b c d e f 第一章 創生期 ― 「反逆者」の発刊と「日本トロツキスト連盟」の結成 日本革命的共産主義者同盟小史
  18. a b c d e f g 西京司『日本トロツキズム運動の形成――西京司論文集』柘植書房、1976年、「まえがき」
  19. a b c 高沢皓司高木正幸蔵田計成『新左翼二十年史――叛乱の軌跡』新泉社、1981年、9頁
  20. 立花隆『中核VS革マル(上)』講談社(講談社文庫)、1983年、58-59頁
  21. a b c d 沢村義雄、織田進『日本共産党批判』 新時代社(国際革命文庫)、1974年
  22. 田川和夫『日本共産党史――神格化された前衛』現代思潮社、1960年、253頁
  23. 小山弘健『戦後日本共産党史』芳賀書店、1966年、245頁
  24. a b 松村良一「日本革命的共産主義者連盟」『戦後革命運動事典』211-212頁
  25. a b 『中核VS革マル(上)』58-59・76-77頁
  26. 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、96頁
  27. a b 『増補改訂'70年版 全学連各派――学生運動事典』162-163頁
  28. 国富建治「第四インター派の「内ゲバ」主義との闘い」いいだもも、蔵田計成編著『検証内ゲバ Part2――21世紀社会運動の「解体的再生」の提言』、社会評論社、2003年、219-221頁
  29. 板橋真澄「酒井与七」『戦後革命運動事典』104頁
  30. 立花隆『中核VS革マル(下)』講談社(講談社文庫)、1983年、204頁
  31. 酒井与七今野求とわれわれの運動」かけはし2001.10.8号
  32. a b 国富建治「第四インター派の「内ゲバ」主義との闘い」同、218頁
  33. 第三章 最初の試練 ― 安保闘争と左翼中間主義とのたたかい ― 日本革命的共産主義者同盟小史
  34. 国富建治「第四インター派の「内ゲバ」主義との闘い」同、221-222頁

関連文献[編集]

  • 中野進『医師の世界――その社会学的分析』勁草書房、1976年
  • 中野進『新・医師の世界――その社会学的分析』勁草書房、1996年
  • 寺岡衛著、江藤正修編『戦後左翼はなぜ解体したのか――変革主体再生への展望を探る』同時代社、2006年
  • 江藤正修編『資料集 戦後左翼はなぜ解体したのか』同時代社、2006年