旧制中学校

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中学校 > 旧制中学校

この記事では旧制中学校(きゅうせいちゅうがっこう)について解説する。

概要[編集]

学制で定められ、中学校令1886年(明治19年)に公布されて設置された。小学校の課程を終えた男子が普通教育を受ける学校である。12歳で入学[注 1]し、17歳で卒業するのが標準で、現在の中学校および高等学校1、2学年に相当する。

当初は尋常中学校とこれを卒業した後に進学する高等中学校が設けられた。尋常中学校は、中学校令公布時は「1府県1中学」制となったが、その後、分校方式で複数校設置に緩和された後、府県下の主要市町[注 2]に中学校が設置された。

高等学校令により高等中学校が旧制高等学校として独立後、公私立の旧制高校や官立東京高校のように、尋常小卒入学資格で旧制中学相当の4年制の高等学校尋常科を設置して七年一貫教育を行った学校もあった。

修学期間は5年で、4年修了(4修)時点で高等学校への飛び入学も可能だった[注 3]。成績が悪ければ、留年退学もあり、卒業延期もあった一方、現在の学制ではない2年級の飛び級での挽回も可能だった。
進路は、卒業後の就職は少数で、卒業・4修後の進学先は高等学校、大学予科専門部高等実業学校旧制専門学校)、高等師範学校陸軍士官学校海軍兵学校師範学校2部[注 4]だった。

授業科目国漢代数、幾何博物、物理、化学外国語地理、歴史法制および経済修身等。職業教育も存在したが、実業学校と競合し、1943年に廃止された。
都庁府県立の旧制中学校は、教員は判任官もしくは判任官待遇、校長は奏任官もしくは奏任官待遇の官吏で、現在の高校とは違い異動は全国単位だった[注 5]

軍縮によって配属先のなくなった将校の活用として軍事教練も行われた。体育活動も活発で、全国中等学校優勝野球大会実業学校と師範学校とともに行った[注 6]

1943年(昭和18年)の学制改革まで他の中等教育機関として実業学校と高等女学校があり、全く別体系の学校であったが、同年の中学校令廃止で制度が大きく変わった。中学校は、新たに昭和18年勅令36号中等学校令により、実業学校や高等女学校と共に中等学校の枠組となった。修学期間が4年に短縮され、夜間課程は正規の課程となった。4年への短縮は戦時措置ではなく、制度としてである。

終戦後の1946年に修学期間が再び5年間に戻されたが、中等学校令が廃止されて学校教育法の施行により、1947年の義務教育延長による公立校の募集停止に続き、1948年(昭和23年)に更なる学制改革が実施され[注 7]、旧制中学校は高等女学校と共に新制高等学校普通科に移行し、1949年3月まで旧制中等学校で入学した生徒のための付設中学校が設けられた。私立の旧制中学校は多くが1947年に新制中学校に移行後、1948年に中・高等学校併設の中高一貫校に移行したが、慶應義塾普通部は例外的に新制中学校のみの学校となった[注 8]。なお、第2回全国中等学校野球優勝大会で優勝したのはこの慶応普通部である。
公立高校は高校三原則が実施された地域で、共学、総合制[注 9]、小学区制が原則となった。また、夜間課程は定時制課程の名称となった。

現在の公立高校の中で、旧制中学校に由来する高校の多くは、1950年代半ばまでに総合制高校から分離し、さらに小学区制も撤廃されて、地域の名門高校として定着していて進学実績も高い。

公立がほとんどであったが、大都市部を中心に私立もあった。

旧制中学校が舞台の作品[編集]

旧制中学由来の高校[編集]

長野県[編集]

松本四校」も参照

兵庫県[編集]

脚注[編集]

  1. 実績は少なかったが、小学5年修了での入学も可能だった。
  2. 1郡あたり1校の県もあれば、これより少ない中学校数の県もあった。
  3. 学校数が少なかったので、現在の大学飛び入学者と違い、上級学校中退時に最終学歴が下級学校に下がることは無かった。
  4. 高小卒業者対象の1部と違い、旧制中学校・高女卒業者を対象とした短期課程。
  5. 坊ちゃんでは、愛媛県教員大分県に異動 (事実上の追放)される描写がある。
  6. 師範学校は1943年の改革で官立専門学校相当の学校となるまで中等学校野球大会に参加した。
  7. 米軍施政権下の奄美群島では実施が1年遅れた。
  8. 文部省が「普通部」の中高一貫校の校名採用を拒否したためとされ、3年生は後に商工学校高学年と合併して発足した慶応義塾高等学校の前身高の生徒となり、4、5年生は1948年に当時組織としてあった慶應義塾大学予科に進学した。
  9. 総合制の高校は普通科と職業科が併設された。