尼子誠久
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尼子 誠久(あまご まさひさ、? - 天文23年11月1日(1554年11月25日))は、戦国時代の武将。尼子家の一族。尼子家の主力軍団と呼ばれた新宮党を率いて武功を立て続けたが一方で傲慢な振る舞いも多く、最後は粛清された。官途は式部大輔。
生涯[編集]
父は尼子国久。祖父は尼子経久。兄弟姉妹に豊久、敬久、又四郎、与四郎、尼子晴久正室、大河原貞尚室、宍道経慶室、数久(天粧寿心大和尚)。子に氏久、吉久、季久、常久、勝久、通久。
能義郡新宮党館に居住し、3000騎の兵力を従え新宮党と称される尼子家主力軍団を統率した[1]。武勇に優れて各地を転戦し武功を立てたが、その一方で粗暴かつ傲慢な振る舞いも多く、従兄弟の当主・尼子晴久や尼子家家臣団と不仲になる[1]。
一説には毛利元就との謀略とされるが[1]、尼子晴久自身の意思ともされ、天文23年(1554年)冬に新宮党は晴久の軍勢に攻められて滅ぼされた[1]。誠久は晴久の家臣・大西十兵衛と立原備前守により暗殺されたという[1]。
子のうち、五男の勝久は、粛清を逃れて京都で僧となったが、尼子氏滅亡後、旧臣の山中幸盛らに担がれ、還俗して再興を狙ったものの果たせず、豊臣秀吉傘下で同じく旧臣の亀井氏が再興軍を吸収し、津和野藩の始祖となった。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9