東條英機
当然なる人道上の配慮によって行ったものだ
東條英機(とうじょうひでき)(1884年12月30日-1948年12月23日)は大日本帝国の軍人、政治家である。
人物像[編集]
典型的な軍事官僚である。 軍隊は野戦指揮官だけでは務まらず、人事、兵站で多くの事務遂行能力が必要である。これは古今東西変わらない。東條英機が現場指揮官を務めていたのは数年間のみである。
経歴[編集]
父は岩手県士族で大日本帝国陸軍中将東條英教。学習院初等科を卒業後、中学校に1年間通学した後に退学して陸軍幼年学校に進学し、陸軍士官学校を卒業して部隊に配属される。陸軍大学校の試験に何度か失敗しつつも受験資格最終年度で合格し、ドイツ留学を経験する。陸軍内部の権力闘争に巻き込まれて陸軍次官から九州の久留米師団師団長に左遷され、さらに満州国憲兵隊長にまで左遷された。この地位は退職間近の無能な将軍が就く職であった。しかし、二・二六事件で本国から逃れてきた者を本国に送り返し、中央の覚えを良くし、再び中央に返り咲いた。そして陸軍中枢にいた皇道派を粛正した。
天皇への高い忠誠心も特徴で、昭和天皇からも高い評価を受けていたとされる。
大日本帝国陸軍を抑えようと内閣総理大臣とされたわけだが、大日本帝国陸軍という組織に一人で対処できるほどの力があるわけではない。
性格[編集]
人の話をメモして、それを3つのメモに整備していた。このような人物は文官には掃いて捨てるほど多いが、武官では少数派であった。陸軍大臣だったときに新聞記者の質問を一字一句メモして「東條上等兵」と陰口を叩かれた。非常に几帳面な性格で、陸軍士官学校で生徒が飛び降りの訓練を行っていた際、「この高さはどれだけだ」と教官に質問したところ、「5、6メートルでしょう」との答えが返ってきたのに対し、「でしょう、とはなんだ、何メートル何センチ何ミリか」と叱ったという。
努力の人[編集]
東條英機は幼年学校当時、勉強は余りできなかった。然しある日「勉強は暗記也」と悟り習つた処を徹底的に暗記した。すると成績が上がった。それ以来東條英機はひたすら暗記を行った。
- 競馬
- 軍馬の研究の一環として、競馬はよく観戦していたんだとか。
強い指導力[編集]
帝国議会に映写機を入れ、映像を全国に広め、議員からの質問に力強く答弁する内閣総理大臣の強さを見せつけた。
- 憲法違反行為
- 衆議院議員中野正剛を議会会期中に逮捕。朝日新聞の社説「戦時宰相論」が引き金であった。中野正剛は後に釈放され、帰宅したが、自室で切腹した。戦争遂行のために陸軍大臣と参謀総長を兼任。陸軍幕府と批判される。
- 竹槍事件
- 毎日新聞の社説、「竹槍では間に合はぬ、飛行機だ」の毎日新聞の記事に東條首相激怒、新聞は差押。書いた記者は大正時代に近視を理由に徴兵検査を不合格にされ、さらに40代を過ぎていたのにも関わらず入営させられたが、上官が同情して厳しい訓練から排除され、さらに記事を賞賛した大日本帝国海軍によって海軍嘱託職員とされた。
第二次世界大戦時[編集]
- 対米開戦には反対の立場だったとされる。「中華民国からの撤兵」というアメリカの要求を段階的に実施する妥協案を提示していた。
- ヒトラーに追われ、難民として満州国まで逃れてきたユダヤ人たちを庇った部下を庇った事があるとされる[1]。
- 楽観的思考の持ち主で、沖縄が陥落してもなお「戦況は五分五分だ」と言い張り、天皇陛下を呆れさせた。
最期[編集]
戦後にA級戦犯とされ、巣鴨拘置所にて絞首刑となった。遺骨は太平洋上に散骨されたとされる。
昭和天皇を庇う発言をして天皇制保持に貢献したとされる。しかし、実際にはダグラス・マッカーサーを始めとする天皇制保持派のアメリカ側の工作もあったと言われていて、これが東條の本心なのかは疑わしい。東京裁判中には天皇の責任をちらつかせるような答弁もしている。