毛利秀包

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毛利 秀包(もうり ひでかね、永禄10年1月18日1567年2月26日) - 慶長6年3月22日1601年4月24日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将筑後国久留米城主で大名安芸国戦国大名毛利元就の9男で、異母兄である小早川隆景の養子となる。小早川 秀包(こばやかわ ひでかね)とも言う。

生涯[編集]

父は毛利元就。母は側室乃美大方。元就が71歳の時の子で、甥の毛利輝元より14歳も年下の叔父に当たる。幼名は才菊丸。

安芸国高田郡吉田郡山城で生まれ、最初は備後国太田英綱の名跡・遺領を継承した。諱は当初は元総・元包であった。

天正10年(1582年)6月、毛利氏織田信長の家臣・羽柴秀吉に攻められて滅亡の危機に立たされていたが、本能寺の変が起こって信長が死去したため、秀吉は急遽毛利氏と和睦して中国大返しを決行。この和睦の際に元包は毛利両川の小早川隆景の人質として秀吉の下に送られ、そのまま秀吉の近習として取り立てられ、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加した。この際、秀吉の偏諱を受けて秀包と改名している。

天正13年(1585年)、人質としての身柄を解かれて隆景の下に帰国することを許され、そのまま同年の四国征伐に隆景と共に出陣して戦功を立てたことから、戦後に伊予国宇和郡に3万5000石の知行を受けた。天正14年(1586年)の九州征伐では宇留津城の戦いで戦功を特に挙げたので、秀吉から激賞されて感状と刀一腰を与えられている。また、同時期にキリスト教に入信してキリシタンとなり、洗礼名はフィンデナオと号した。九州征伐後、秀吉より筑後国の内、山本郡全てと御井郡上妻郡のそれぞれ一部など合計3万5000石(諸説があり、7万5000石とも)を与えられた。また、キリシタンになった関係からと思われるが、同時期にキリシタン大名で有名な大友宗麟の娘・引地(マセンシア)と結婚し、正室に迎えている。

久留米城主となった秀包は、久留米城の大規模な拡張工事を行なった。天正15年(1587年)7月、肥後国人一揆が起きると、秀吉の命に従って隆景や立花宗茂と共に出陣して一揆鎮圧に努め、12月までにこれを成し遂げた。この功績により、天正16年(1588年)に羽柴姓、並びに侍従の官位と桐の紋を与えられた。

天正19年(1591年)、朝鮮出兵の直前に元久留米城主だった麟圭を謀殺している。不仲が理由といわれているが、元久留米城主であり、高良山座主として隠然たる影響力を保持していた麟圭を置いたまま出兵する不安があっての抹殺ともいわれている。その後、朝鮮出兵で渡海している。

文禄3年(1594年)、秀吉の養子だった木下秀俊(のちの小早川秀秋)が、当時子が無かった輝元の養子に迎えられそうになると、異母兄の隆景は自らの養子に迎えたいと願い出て養子としたため、秀包は小早川家の相続権を失って別家し、この際に姓も毛利に戻したと言われている。

秀吉の死後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは本家の甥・毛利輝元と共に西軍に属して敗戦する。自らの居城である久留米城は東軍に属した黒田如水鍋島直茂らに攻められ、黒田如水の勧告に従って開城。その後間もなく剃髪して筑後守道叱(どうしつ)と号した。その後しばらくして病に倒れ、赤間関付近の南部村で治療するも回復せず、慶長6年(1601年)3月に病死した。享年35。

墓所は山口県豊浦郡西楽寺

人物像[編集]

秀包はキリシタン大名としてキリスト教の布教に熱心だったといわれている。久留米城の近くに教会を建立し、伝導所を設置し、死刑囚に対してはキリスト教への入信を勧めて入信した者には、神父への告解の後に処刑してキリシタンとして丁重に葬るように命じたという。自らも死に臨んで、山口の神父に告解して聖体の秘蹟を受けたといわれている。

イエズス会年報』によると、筑後国のキリシタンは慶長5年(1600年)の段階で7000人を数えたと言われており、教会が2つ、伝導所が1つあり、神父1人と修道者2人が布教に当たっていたとされており、秀包による布教の影響力がよく行使されていたことが伺える一例となっている。

家族[編集]

秀包の子は3男4女が確認されている。

登場作品[編集]