黒田孝高
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黒田孝高(くろだよしたか、1546年12月22日-1604年4月19日)は日本の戦国大名、軍略家。
概要[編集]
豊臣秀吉の軍略家として活躍した。黒田官兵衛(くろだかんべえ)、黒田如水(くろだじょすい)とも呼ばれる。秀吉家臣前の名前は小寺孝隆(こでらよしたか)。
生涯[編集]
小寺家臣時代[編集]
- 1546年 小寺(黒田)職隆の息子として、播磨国に生まれた。
- 黒田家は播磨の小寺氏に仕えていて、父・職隆に小寺姓が与えられた。孝高も、小寺政職に仕え、小寺姓を名乗った。
- 1567年に櫛橋伊定の娘・櫛橋光と結婚する。
- 小寺氏は、西は毛利に東は足利義昭を将軍にした織田信長に囲まれる状況であり、いつ攻めてくるか分からない状況だった。その為、孝高は政職に、長篠で武田を破り勢いのある織田に臣従するよう進言し、政職はそれに従って織田に臣従した。
- しかし1576年に波多野秀治が、1577年に松永久秀が、更に翌年には荒木村重が織田から反織田に寝返って行く状況を見た政職は毛利方への離反を画策した為、孝高は止める。政職は村重を説得できたら離反を思い留まるとし、孝高を有岡城へ向かわせる。しかし、孝高は捕縛され1年間幽閉される。この時、織田信長は孝高が離反したと勘違いし、織田に人質として出していた、息子の松寿丸を殺すよう信長は竹中重治に命じたが、重治は城下で亡くなった別の子の首を持ってきた事で事なきを得る。
秀吉時代[編集]
- 1579年に有岡城が落城すると、羽柴秀吉に仕え、秀吉の中国攻めに参加する。
- 1579年に竹中重治が三木攻めの途中、三木城で亡くなった。孝高は恩返しとして竹中重治の家紋を用いた上に、自分の雅号を如水とした。如水の「水」の字は、重治の戒名「深竜水徹」の「水」から一文字とったものである。
- 1580年頃、主家の小寺氏が播磨を捨てたのを機に、姓を黒田にする。
- 1582年備中高松城攻めの最中本能寺にて織田信長が亡くなる。その時に秀吉に講話し中国大返しを行う事を進言する。また、孝高は毛利方の安国寺恵瓊と交渉した。
- 1584年の小牧・長久手の戦いでは織田信雄との単独講話を成功させる。
- 1587年には豊前国12万石を与えられる。
- 1590年の小田原征伐では、北条氏直に開城交渉を行い、開城させた。
- 1592年から始まった文禄・慶長の役に武功派として参加したが、文治派の石田三成や小西行長らにより、上手く策が定まらなかった。また戦役中に次男の黒田熊之助を亡くしている。
徳川時代[編集]
- 1598年に秀吉が亡くなると、徳川家康に近づく。
- 1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川方に付き挙兵して、九州の豊臣方を牽制。そのまま、中国地方の西軍勢・毛利氏に攻めこもうとするが、本戦がわずか6時間で決着した為、侵攻出来なかった。
- その後、息子の黒田長政が筑前に領地を与えられ、孝高も九州での活躍から領地をもらえる話が入るも辞退し、隠居。
- 1604年に死去した。
その後(徳川以降)[編集]
- 1902年、従三位の位を追贈された。