小笠原信嶺
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小笠原 信嶺(おがさわら のぶみね、天文16年(1547年)[1] - 慶長3年2月19日[1](1598年3月26日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田家の家臣。後に徳川家の家臣。
生涯[編集]
父は小笠原信貴で嫡子[2]。弟に長巨。娘に小笠原信之正室と榊原忠勝室で、信之(実父は酒井忠次)は信嶺の婿養子になった。
官途は掃部大夫[2]。信濃松尾城主で甲斐武田氏の信濃先方衆[2]。正室は武田信廉の娘[2](武田信玄の姪)。名の「信」は武田家から授与されたものである[2]。
天正元年(1573年)7月から三河長篠城に在番するが、9月に徳川家康に落とされたため敗走する[2]。天正10年(1582年)2月に織田信長の武田征伐が開始されると武田勝頼から離反して信長に服属したため、所領安堵された[2]。6月の本能寺の変で信長が死去して天正壬午の乱が起こると徳川家康に服属し、酒井忠次の与力となる[2]。天正18年(1590年)の小田原征伐後に家康が関東に移封されると信嶺も従い、武蔵本庄に1万石を与えられる[2]。慶長3年(1598年)2月19日に52歳で死去[2]。娘しかいなかったため婿養子の信之が跡を継ぎ、家系は江戸時代も存続した。
法名は開善院徹州道也[2]。