大元帝国

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大元帝国(だいげんていこく、1271年 - 1368年)とは、中国を支配した王朝である。モンゴルと中国本土を支配したモンゴル人による王朝で、それまで成立していたモンゴル帝国が大元帝国と名を改名したともとることができ、そのためフビライ以後の大元帝国の皇帝はモンゴル帝国の皇帝も兼ねている。日本史では元寇として日本に襲来した王朝として知られている。

歴史[編集]

この大元帝国は1271年、モンゴル帝国の第5代皇帝であったフビライが国名を大元と改めたことにより創始された。フビライは首都を現在の北京に移し、ここを大都と名付けて国政の整備を行う。創設当初は中国北部とモンゴル平原のほかは、朝鮮半島などを従属させていたが、1279年までに南宋を完全に滅ぼして中国全土を統一した。

フビライはさらに日本に派兵し、当時の鎌倉幕府に従属を求めたが、北条時宗はこれを拒否して元寇となる。しかし、この2回にわたる元寇で大元帝国軍はいずれも大敗した。また、ベトナム陳朝にも派兵したが、名将・陳興道の激しい抵抗に遭い、こちらも数年がかりの遠征の末に失敗に終わった。これらの遠征の失敗により、かねてからフビライに不満を抱いていたオゴデイ・ウルスカイドゥにより1287年に大規模な反乱を起こされるが、フビライは配下の名将・バヤンと協力してこれを平定している。しかしこの反乱(カイドゥの乱)により、それまでのモンゴル帝国による結束は大いに乱れ、事実上の分裂状態となってしまった。

1294年にフビライが死去すると、孫のテムルがバヤンの後見の下で跡を継いだ。バヤンは間もなく没したが、この後継の安定化を見てオゴデイ・ウルスに味方していたモンゴル貴族がテムルに帰属し始め、それにより焦ったカイドゥにより起こされた1301年の戦役では大元帝国軍がカイドゥに大勝し、これにより間もなくカイドゥは戦病死してやがてオゴデイ・ウルスも滅んで大元帝国はしばらくは安定を見た。

だが、テムルが死去すると皇帝の地位をめぐる激しい皇族の後継者争いが開始される。この争いは絶えず勃発し、また歴代皇帝に有能な人物が現れずに凡庸な者が相次いだ上、皇帝がラマ教に傾倒して政治を顧みなくなり、浪費を繰り返すようになる。皇帝の国政への無関心により、実権は大元帝国の実力者に掌握されて皇帝自体が有力者の傀儡として利用されるようになってしまった。しかも皇帝の浪費を補うために交鈔を乱発した結果、それによるインフレが発生して経済は大混乱となる。さらに14世紀半ばになると大元帝国の国内で飢饉ペストによる社会不安まで発生して、大元帝国の大混乱は最早留まるところを知らなくなった。

このような中で大元帝国、すなわちモンゴル人に抑圧された漢民族による反乱が各地で発生した。特に1351年に開始された白蓮教徒による紅巾の乱で、中国南部を制覇した朱元璋の勢力は強力だったが、これに対して大元帝国では未だに内部で争いを続けており、対処が不可能な状態にあった。1368年、朱元璋が大軍を起こして北上すると、当時の大元帝国皇帝であるトゴン・テムルは大都を放棄してモンゴル本土に逃れ、これにより大元帝国は滅亡し、以後は北元となり、中国本土は朱元璋が興したの支配するところとなった。

政治・経済[編集]

この大元帝国はフビライの時代にほぼ国としての体制が整備されている。フビライは皇帝の権力を強化するため、モンゴルの軍制と中国の政治制度融合した統治機関(行中書省)を設置した。これらは南宋やの制度を踏襲したものであり、そのほかにも中書省・御史台・枢密院の設置や官僚の編成を行い、皇太子制度を定めて王朝を中華化している。

またフビライは身分制度として、少数の支配層にモンゴル人、そして経済に通じた色目人(主に西域イスラム教徒)を優遇し、それにより大多数の漢人や南人を支配下に置いた。ただしフビライは科挙を廃止して実力本位の人材登用を行ったりしている。

大都を中心とした水陸交通網の再編や交鈔を用いた紙幣制度で経済を活性化させ東西交流を盛んにして、海上交易路をも勢力圏に収めて世界帝国として一時期は大いに繁栄した。経済では紙幣である交鈔を発行して通貨の統一をはかっている。

大元帝国の皇帝[編集]

  1. 世祖クビライ(1271年 - 1294年チンギス・ハーンの孫。
  2. 成宗テムル(1294年 - 1307年) クビライの次男・チンキム(裕宗)の3男。
  3. 武宗カイシャン(1307年 - 1311年) チンキムの次男ダルマバラ(順宗)の子。テムルの甥。
  4. 仁宗アユルバルワダ(1311年 - 1320年) ダルマバラの次男。武宗カイシャンの弟。
  5. 英宗シデバラ(1320年 - 1323年) アユルバルワダの長男。
  6. 泰定帝イェスン・テムル(1323年 - 1328年) チンキムの子カマラ(顕宗)の長男。
  7. 天順帝アリギバ(1328年) イェスン・テムルの長男。
  8. 文宗トク・テムル(1328年 - 1329年) カイシャンの次男。
  9. 明宗コシラ(1329年) カイシャンの長男。トク・テムルの兄。
  10. 文宗トク・テムル(復位、1329年 - 1332年
  11. 寧宗イリンジバル(1332年) コシラの次男。
  12. 恵宗トゴン・テムル1333年 - 1368年) コシラの長男。イリンジバルの兄。

大元帝国の年号[編集]

  1. 中統1260年 - 1264年)これは大元帝国が成立する前のフビライがモンゴル皇帝として使用した元号。
  2. 至元(1264年 - 1294年)フビライがモンゴル皇帝として使用した元号だが、元皇帝として即位した後も使用された。
  3. 元貞1295年 - 1297年
  4. 大徳(1297年 - 1307年
  5. 至大1308年 - 1311年
  6. 皇慶1312年 - 1313年
  7. 延祐1314年 - 1320年
  8. 至治1321年 - 1323年
  9. 泰定1324年 - 1328年
  10. 致和(1328年)
  11. 天順(1328年)
  12. 天暦(1328年 - 1330年
  13. 至順(1330年 - 1333年
  14. 元統(1333年 - 1335年
  15. 至元(1335年 - 1340年
  16. 至正1341年 - 1368年

関連項目[編集]