科挙

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科挙(かきょ)は、東アジアで行われた官僚採用試験。から末期までの中国王朝や朝鮮王朝で行われた。

採用に至った経緯[編集]

漢代の推薦制[編集]

古代中国のような巨大な国家機構を持続的に運営するためには一定の質と量を備えた人材供給システムが必要である。中国では官吏選任は「選挙」といわれ、漢の武帝の時に郷挙里選を始めた。武帝以前は、高官の子弟または富裕な者の子弟から登用していた。武帝は郷あるいはその下の単位である里から官吏となる人物を推薦させた。

漢代では人材補給は推薦制であった。推薦には2種類あり、第一は臨時募集として詔勅により採用条件を定めて政府高官や地方長官に推薦させるものである。第二は歳挙という定期的な官僚候補者の推薦システムである。推薦システムにおいては推薦できる者は限られており、金銭や情実がからむから制度が崩壊することは必然であった[1]前漢(紀元前206年から8年)から後漢(25年 - 220年)を通じて推薦制(選挙法)が行われた。

九品官人法[編集]

文帝九品官人法を定めた。これは推薦制を維持しつつ、才能に応じて一品から九品の9段階の等級を定めて人材の推薦基準を明確化し、政府高官の圧力を受けないよう、各州郡に中正官を置き推挙させることとした。これは平等に役人を選ぶための制度を作る意図であり、漢代の徳行主体の人事基準から能力主体の基準へと移行させるものであった。しかし実際には地方豪族の既得権を強化する方向に向かった。本人の実力よりも評判・名声や賄賂が横行し、特定の一部の豪族が中央政府の枢要を占め続けるようになった[1]。郷品の世襲化が始まり、豪族層が貴族層を形成するようになっていった。六朝時代にも試験制度はあったが、重視されていなかった。代に入ると科挙制度が成立して、九品官人法は廃止された。

概要[編集]

科挙制度創始[編集]

の文帝(楊堅)はそれまでの九品中正制を廃止し、587年に学科試験による官吏登用制度を始めた。皇帝の権力が大きかったので、実力のある人材を登用し、皇帝の権力をより高めるのが目的であった[1]。中央政府の試験に合格した者のみを任用するようにした。家柄や出自に関係なく、成績さえ良ければ高級官僚として登用するということは、世界的に見ても画期的なことであった。秀才明経進士などの科目があり、秀才は政治学、明経は儒学、進士は文学であった。入口を多様にして、様々な人材を登用しようとしたのである。 科挙は唐代、宋代、清代ではそれぞれ異なるので、時代別に説明する。

唐代の科挙[編集]

唐代においては、『大唐六典』に挙試の制度として「秀才、明経、進士、明法、明書、明算」の六科をあげている。当初は秀才科を重んじていたが、試験が厳しく応じるものがなくなったため、初唐の時代に廃止された。秀才科が廃止されたあとは、進士科が重要視された。『通典』によれば、中唐において進士科の受験者は約1000名で合格者は100人に1名程度であった。進士科の合格者数は唐代では毎年、30名ほどであった。明経科は受験者が2000人、合格者が10人に1人であった。 唐代の科挙を受けるためには受験資格があった。受験資格を得るためには2つのコースがあった。第一は唐の国立学校を経ることである。唐代の国立学校は六学といい、国士学、太学、四門学、律学、書学、算学の6種があった。すべてを統括するのは国士監である。国士学に入学できるのは三品以上の高級官僚の子弟に限られていた。太学は五品以上、四門学は七品以上であった。国立学校を経たものは「生徒」として省試を受けることができる。第二は予備試験である府州試に合格することである。府州試は第1段階の試験として各州で行われるものである。これに通過した者は郷貢進士と称する。中央の学校から選抜された生徒と郷貢進士が集まり、都に集まり、礼部が行う貢挙(省試)を受ける。貢挙を通過すれば、ただちに進士及第の称号を受け、進士となる。省試の責任者を知貢挙という。 実際に任官するときは、別に吏部が行う採用試験である詮試を受けなければならなかった。

宋代以降[編集]

最後に皇帝の面接試験も行われるようになり、後年になるにつれて試験に至る道筋が複雑になった。科挙には大きく二つがあり、文官となる文科挙と武官となる武科挙であったが、科挙といえば通常前者であった。儒学を重んじる中国王朝は文官の地位が高く、武官の地位が低い。このため、戦争になっても司令官は文官となることが多かった。軍隊で最も発言力の強いのは兵卒上がりの将軍であり、武科挙を受けた武官ではない。ただ、将軍は文盲のことが多いので、報告書は武官が作成し、将軍が署名、押印するということがあった。治山治水といった国の根幹をなす事柄は試験に出されなかった。そのようなことは身分の低い技官の仕事だった[2]

施行期間[編集]

587年に始まり、1904年を最後に廃止された。

試験会場[編集]

試験会場は各自が個室で答案を作成する。この個室には寝具や調理器具を持ち込んでもよかった。しかし、答案作成の緊張感から調理や睡眠もろくに取れず、暗い中、ろうそくの明かりを頼りに答案作成を行った。また、個室といっても鍵のかかる扉があるわけでなく、風雨が個室内に入り込み、受験者は大切な答案用紙を必死に風雨から守った。そのような中、発狂する者もいた。

長所[編集]

男子ならば誰でも受験でき、しかも無料で受験できた。これによって優秀な人物を集めることができた。また、官僚の血筋というものがないので抵抗勢力がなく、皇帝の親政が実現できた。

問題点[編集]

広く人民に人材を求めたという建前があったが、実際は長く試験勉強にかける時間が必要で、書籍の購入や家庭教師に払う謝礼など、裕福な家庭でなければ試験に合格することが難しかった。理想と現実には乖離があった。さらに、倍率が高く、何度不合格となっても受験できるので合格するまで受験し、無為に年月を取るものが出た。さらにストレスから精神病になったり、失うものがない無敵の人と化して反乱を犯す者が現れた。

廃止[編集]

ヨーロッパ列強の進出による国力の低下が起きているにもかかわらず、試験内容が教養科目しかなかったため、実務に通じた官僚が生まれなくなり、抜本的な官僚制度の刷新の為に廃止された。

中国外[編集]

  • 朝鮮王朝やベトナム王朝でも科挙が実施された。但し、朝鮮王朝では、両班などの上位門閥層にしか受験資格が無く、門戸開放には程遠かった。現在の韓国における英才教育振興法も科挙の名残があるとされる。
  • 日本では平安時代に課試が実施されたが、他の科挙実施国よりも武士の教養が高く、政権を取りやすかったこともあり、幕末まで科挙は発達しなかった。一方、明治から昭和戦前にかけ、後年に科挙の性質を持つと評される高等文官試験が実施された。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  1. a b c 村上哲見(2000)『科挙の話』講談社
  2. 宮崎市定(1963)『科挙』中央公論新社 (昭和38年5月25日初版)