アユルバルワダ
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アユルバルワダ(Ayurbarwada、漢字:愛育黎抜力八達、 1285年4月9日 - 1320年3月1日)は、元の第4代皇帝(大ハーン)。名はアユルバリバドラ、アーユルパリバドラとも読まれる(在位:1311年 - 1320年)。
生涯[編集]
第2代皇帝・成宗テムルの早世した兄・ダルマバラと、有力部族コンギラト出身の妃・ダギの間の次男で、第3代皇帝・武宗カイシャンの弟。
1311年に兄のカイシャンが急死したため、兄の幼い遺児に代わる形で即位している。ただし、即位すると直ちに兄の遺臣を粛清するなど体制の一新を図っており、この即位をアユルバルワダがクーデターを起こしてカイシャンを暗殺したのではないかとする説もある。
アユルバルワダの時代は母の皇太后・ダギとダギの出身氏族であるフンギラト氏のテムデルが実権を掌握して専横した。テムデルとダギらはカイシャン時代の新しい紙幣を旧弊に戻して商業税を課す新たな方針に転換したが、目立った成果は挙げられていない。アユルバルワダ自身はカイシャンと異なって中国文化に傾倒して育ったことからそれを尊び、元王朝下ではこれまで厳禁とされていた科挙を制限付きながらも復活させた。また、中国文化を積極的に導入して元王朝の中国化を一気に推し進めている。
アユルバルワダもカイシャン同様に寿命に恵まれず、在位9年で1320年に36歳で崩御した。後継者にはカイシャンの生前にカイシャンの息子を立てるように命令があったにも関わらず、アユルバルワダやダギらの画策でそれらは反故とされ、アユルバルワダの長男・シデバラが英宗として即位することになった。
系譜[編集]
后妃[編集]
『元史』巻106表1后妃表には2人の皇后の名前が記録されている。
- 荘懿慈聖皇后ラトナシリ(阿納失失里)(?‐1322) コンギラト部出身。
- ダルマシリ皇后(答里麻失里):出身部族、出自などの記録なし。