カイシャン

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カイシャンQayšan漢字海山1281年8月4日 - 1311年1月27日)は、の第3代皇帝(大ハーン)。『集史』および『ヴァッサーフ史』『選史』などのペルシア語資料の表記では、ハイシャンと言われている(在位:1307年 - 1311年)。

生涯[編集]

元の第2代皇帝・成宗テムルの早世した兄・ダルマバラの長男として生まれる。母はダギ

テムルの時代に中央アジアの全勢力を動員して侵攻してきたカイドゥと戦い、これを破るなど多くの軍功を挙げる優れた軍人として頭角を現した。テムルの息子・デイシュが早世していたこともあり、カイシャンはテムルの甥として有力な後継者と目されていた。

1307年にテムルが崩御すると、テムルの従兄弟であるアナンダを擁するテムルの皇后ブルガンと後継をめぐって争うことになり、最終的に重臣の支持を受けたカイシャンが勝利してブルガン、アナンダらは殺され、カイシャンが第3代皇帝として即位した。

即位後は有能な軍人としてモンゴルの遊牧の気風を尊重し、中国風に弛緩していた王朝の引き締めに努めた。だが政治家としては恵まれず、人事においては軍人時代に自らに協力したり貢献した人間を見境なく要職に就けたりするなど爵位を乱発する。また、祖父のフビライや叔父のテムルの時代から続く戦乱のために軍費が重なり、財政が赤字に転落していたので新しい紙幣を発行して財政の再建を目指そうとするが、この経済対策は完全に場当たり的でかえって大混乱を招いた。

カイシャンは寿命にも恵まれず、即位からわずか4年後の1311年に31歳の若さで崩御した。これは一説に次代を継承した実弟・アユルバルワダ(仁宗)によるクーデターにより殺されたとも言われているが定かではない。

カイシャンの長男・コシラは元の第9代皇帝、次男・トク・テムルは第8代皇帝として後に即位することになった。

系譜[編集]

后妃[編集]

元史』巻106表1后妃表には3人の皇后と2人の側室の名前が記録されている。

子女[編集]