松井石根

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが松井石根の項目をおカタく解説しています。

松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年7月27日 - 昭和23年(1948年12月23日)は、日本陸軍軍人。最終階級陸軍大将

生涯[編集]

若い頃[編集]

出身地は愛知県。父は旧尾張藩士松井武国、最終階級は陸軍大将。
主に日本と支那互助アジア安保を目的とする。松井が心を惹かれた格言は「帝国軍の存在する訳は東アジアの平和維持にあり」や「ロシアとの戦争は回避不能であるから、その防衛として東アジア中の秩序を統治する必要がある」で、欧米の強い植民地支配から脱却し、日中の強い互助関係を結んで東アジアが一丸となって独立を促す目的を成し遂げる必要があると考えた。
1904年、松井は学生の時期を日露戦争に従軍した。そして参謀本部に配属されてフランスに差し遣わされた。1907年、松井はフランスから帰国して自身の希望が叶い興味のある中国の清に再び派遣をされ、日中友好関係の架け橋を目的としたかった。1909年に大尉から少佐へ階級が上がり、その時期から孫文と親しくなった。松井は孫文の大アジア主義を強く支持して辛亥革命に加担した。中国国民党の袁世凱を打ち負かすのにも協力をした。蒋介石は来日の経験があり、松井と仲を深めていった。蒋が政治的に苦難を感じている時期に訪日を誘って田中義一首相との議論をして困難を乗り越えた。二人は国民革命が達成して、中国統一が完成した暁には中国国内で政府は満州における日本の地位と特殊権益を認めることを約束ことにした。松井はその時期に既に中国は蒋介石に統一されるだろうと睨んで蒋と協力関係になった。

蒋介石と不仲に[編集]

1928年5月3日から5月11日、済南事件が勃発。批判が蒋介石へ続々と殺到した。日中関係は松井の狙い通りにならず意外な方へ向かっていった。1928年6月4日張作霖爆殺事件が勃発、松井は「田中・蒋介石会談」の合意が確実に失意に落ちた。結果的にその事件によって昭和天皇の怒りを買い、 田中首相は地位を失った。そうして、松井構想は敗壊し、蒋介石も日本へ抱く信頼感を喪失した。

中国侵略[編集]

1931年、満州事変、1932年満州国建国を経て蒋介石の反日感情を色濃く強ませていった。1933年、松井は大亜細亜協会を創設した。会員は近衛文摩や広田弘毅や小畑敏四郎や本間雅晴や鈴木貞一や荒木真夫や本庄繁がメンバーであった。「欧米植民地支配からアジアを守ろう!」松井らが「大亜細亜主義」を主張した。1936年松井は蒋介石と関係を取り戻すのに田中正明を誘って近づき、松井と蒋介石二人だけの押し問答に終止。二人は最後に孫文のアジア主義の遂行でお互いに合意し合って離別した。同年西安事件が起きると蒋介石は国共合作で抗日に態度をひるがえした。以上から松井は蒋介石と友好関係を結ぶ構想は壊れた。

1937年7月7日、盧溝橋事件によって日中戦争が勃発。同年7月29日に通州事件や8月9日大山事件が起きた。松井は5個師団で突如として蒋介石軍を攻め打ち負かそうと企んで、直ぐに和平を望んでいた。11月5日、柳川平助中将が統率をする第10軍は、杭州湾上陸作戦を開始し、成功をして日本軍が有利になったが、第10軍は松井の指揮系統下ではなかった。11月12日上海は没落したが、死亡数は日本軍が一万人近くに及んだ。松井は上海上陸後11月に入ってから軽度のマラリアに感染をした。高熱にも苦しみ軍医に処方されたキニーネを飲みながら指揮を執った。南京攻略戦以降は衰えに向かう12月5日から15日まで蘇州の司令部で病気で寝った。

南京攻略戦[編集]

松井は南京攻略を12月中頃と計略をして部下を休ませていた。トラウトマン和平工作を目論んでいたんだろうか。11月19日第10軍は勝手な判断で松井の指揮を無視して南京攻略戦を開始した。松井は「攻めるな」と命令をだして軍の攻撃を止めるよう試みるが失敗し、第10軍の暴力を追認した。11月28日、参謀本部は南京攻略命令を出した。12月7日、松井は南京攻略を前に南京城攻略要領を部下に渡し、蒋介石はこの日に南京から逃亡している。12月9日、日本軍は降伏勧告文を南京の街に飛行機からばら撒いた。翌日、その文へ返信はなく南京を総攻撃した。13日南京没。17日松井南京入り。一部の部下が略奪行為があったと事件を報告され、松井は「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と悲しんで軍紀の粛正を改めて命じるのと中国人へ軽侮の思想を戒めた。

東京裁判[編集]

宣誓口述書では、一部の部下の軍規違反の略奪行為は認めたものの南京で起きた大虐殺については否定している。1946年、松井は巣鴨プリズンに入る前、身内を招待して楽しみ「乃公はどうせ殺されるだろうが願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないなぁ」と言った。次の5日出頭刑務所の中では毎朝、観音経を唱えるのが習慣だった。戦後戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。判決は松井が指揮官を執った支那軍が南京で起こした不法行為に関して抑止や部下の処罰を怠ったとして死刑の判決だった。松井は東京裁判で「南京事件は公的な報告を受けたことがなく終戦後アメリカ軍のラジオで初めて聞いた」と証言しているが、判決では「自分の部下に行動を厳正にせよと命令をしたが何の効果ももたらさなかった。自分の部下を統率をし、南京市民を保護する義務や権限をもっていたが、履行を怠った」松井が南京攻略後に帰国したことを取り上げ検察側は日本軍が南京で多数の不法行為の責任を問い、指揮官の職を辞めたと言う一連の流れを持ち出した。松井は「それは訳にならない。自分の仕事は南京で終わったと考え軍服を脱いだ」と否定したが、反論は一切聞き入れなかった。「南京で2万の強姦、20万人以上殺害があった」とした。松井に言い渡された判決では「南京崩壊から6,7週間に何千という婦人が強姦され、10万人以上を殺害された」とした。

巣鴨プリズンでの最期[編集]

1948年、松井は巣鴨拘置所において花山信勝に次の言葉を残した。問題箇所を抜粋すると「せっかく皇威を輝かしたのに部下の暴行によって一挙にして落としてしまった〜当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省を与えるという意味でとても嬉しい」この文が松井の生命線を切って「職務を怠ったとして死刑」になったと推察をする。つまり松井は部下が南京でもっと中国の人々を殺害してくれれば、とても嬉しいとなります。平和に対する罪では無罪だったが1948年、巣鴨プリズンで松井の死刑を執行した。1978年、松井はA級戦犯で靖国神社に祀られる。

外部リンク[編集]