石原莞爾
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石原莞爾(いしわらかんじ)とは、大日本帝国陸軍軍人、思想家。最終階級は陸軍中将。
生涯[編集]
1889年1月18日、山形県鶴岡市に生まれる。父親は警察官で転勤が多かったため、石原も頻繁に引っ越している。幼少期の彼は乱暴な一面があった一方で勉強がよくできたそうだ。1902年、仙台の地方軍学校に入学し、主席で卒業。1905年に陸軍中央学校、1907年に士官学校とエリートコースを突き進み、1910年、陸軍へ赴任した。なお、士官学校の同期として樋口季一郎がいる。
ワイマール共和国への赴任を経て1928年に関東軍参謀として満州へ渡る。ここで彼が引き起こしたのが満州事変である。しかし、石原が五族共和を掲げて不拡大方針を採っていたのに対し、東條英機らは中華民国を叩くべしという拡大方針を主張。この結果石原は日本国内へ戻されてしまう。
二・二六事件の際には鎮圧の先頭に立ち、皇道派の重鎮である荒木貞夫を「お前みたいな馬鹿がいるからこんなことになるんだ!」と罵倒した。その後も日中戦争などを批判するような言動を繰り返したため東條ら陸軍主力に嫌われ、1938年に予備役編入された。実質的な追放である。太平洋戦争中は思想家としての活動に励み、立命館大学で講演を行なったりしていた。しかし、憲兵や特別高等警察からの強い圧力で自粛せざるを得なかった。
戦後、石原は東條との対立や一貫した不拡大方針がGHQから好印象を抱かれ、戦争犯罪人への指定を免れた。東京裁判には証人として出廷したが、判事が「日清戦争・日露戦争まで、日本の行ったすべての侵略戦争を裁きたい」と発言した際には「それならペリーを連れて来い」と激怒。レスバで判事を圧倒した。持病の悪化で終戦のちょうど4年後である1949年8月15日に永眠。享年60。
逸話[編集]
- 学生時代、美術の作画課題で自分の男性器の絵を提出して教師をドン引きさせたことがる。
- 東洋の盟主日本と西洋の覇者アメリカが戦争するという世界最終戦争論を唱えていた。
- 東條を「東條上等兵」と嫌悪し、会見の際にも「君には戦争指導など無理だから首相を辞めなさい」と言い放っている。
- 独ソ戦でナチス・ドイツ必勝論が有力視される中、ソビエト連邦が勝つと予言していた。