大名
大名(だいみょう)とは、武家政権下における各地の権力者のことである。20万石を超えたあたりから大大名(だいだいみょう)と言われるようになり、1万石から5万石あたりが小大名(しょうだいみょう)、それ以外が中堅クラス的な大名であった。
歴史[編集]
室町時代以前[編集]
室町時代以前に「大名」と言えば、大規模の名田(荘園)を持つ「各地で名の知れた者」の意であった。対義語は「小名」である。
室町時代[編集]
領主としての「大名」なる概念が生じたのは室町時代からである。足利氏の率いる幕府下で全国の統治が進められていき、各地へ有力者が領主として派遣されていった。彼らの多くは守護大名(しゅごだいみょう)といい、その守護大名を支える一族として守護代(しゅごだい)が生じた。また、守護大名の支配地域には守護代に匹敵するほどの勢力を持つ豪族もおり、守護大名に仕えていた。守護大名を構成していた氏族は足利一門か名族が多かったが、大名を取り締まる厳格な規則がなかった為、度々大名間の戦争や内乱が起こった(足利義満は故意に大名を挑発し、謀反を起こさせて滅ぼしていた。これは足利一族の支配を強める目的があった)。
戦国時代[編集]
応仁の乱で室町幕府の威信に陰りが見えると、各地の領主は独立して政治を行う者が現れた。俗に言う戦国大名である。一口に大名とは言っても、その領土は様々であり、数郡程度の者もいれば、数カ国以上の領土を誇る者もいた。国人領主・豪族と戦国大名の区別は諸説あるが「独自の政策を領民に発布できるか、独自に政略結婚などの策略を行えるか」が大まかな基準である。代表的な戦国大名を以下に列挙する。
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- 松前氏(若狭武田氏の一族武田信広を祖と仰ぐ一族であるが、仮冒と言われる。長らく安東氏の配下であったが、豊臣秀吉に取り入って独立に成功した。アイヌ相手に戦闘を繰返し、領土を獲得した氏族として知られる)
- 津軽氏(津軽為信を祖と仰ぐ一族。為信の出自は不詳であるが、南部氏の一族といわれる。典型的な下克上大名で、南部氏相手に謀反を起こし成功させた)
- 南部氏(清和源氏の一族の名門。資料の大半が焼失しており、謎を多く残す一族である。津軽氏に領土の一部を奪われた)
- 安東氏→秋田氏(安倍宗任の末裔を自称する一族。秋田介を自称して秋田に改姓した)
- 最上氏(斯波氏の庶流。最上義守の娘・義姫は伊達政宗の生母である)
- 葛西氏(系図に混乱が見られ、謎の多い一族である)
- 稗貫氏(戦国大名に含まないとする説もある。有力国人でありながら戦国大名化には事実上失敗しており、小田原征伐に遅参して所領を奪われた。起死回生すべく稗貫和賀一揆を起こすも敗戦し、それ以降一族の動向は判然としないままである)
- 大崎氏(奥州探題の家柄)
- 伊達氏(藤原山蔭流を自称する一族、室町末期には守護大名に任じられる)
- 相馬氏(千葉氏庶流の名門で、伊達氏と度々衝突した)
- 浪岡氏(伊勢国司北畠家の庶流を自称する一族)
- 戸沢氏(平氏を自称する一族)
- 雫石氏(斯波氏の一門)
- 那須氏(那須与一を祖と自称する一族。重臣の専横に終始悩まされ、江戸時代には立場が逆転、没落した)
- 佐竹氏(清和源氏義光流の名門。義篤、義昭、義重、義宣と名君が続き、栄えた。現在の秋田市長は義重の子孫)
- 小田氏(八田知家の末裔であったが、堀越公方より養子を得て血縁的には足利氏となる。小田氏治は幾度も所領を失うが復帰し、小勢力ながら周辺大名と争った)
- 小弓公方(小弓城を根拠地とした足利一族で、小弓公方は足利義明の自称である。子孫は喜連川氏)
- 真里谷氏(甲斐武田氏の一族で、椎津城を拠点に戦国大名となる。最後の当主は真里谷信応で、北条氏康に居城を落とされた3日後に自害し、真里谷氏は滅亡した)
- 扇谷上杉氏(元は関東一円を管轄する有力大名であったが、内乱や御家騒動で弱体化した。台頭してきた後北条氏に対抗すべく河越城を包囲したが北条氏康の奇襲に敗れ討ち取られた。これによって扇谷上杉氏は滅亡・断絶している)
- 太田氏(元は扇谷上杉氏の重臣だったが、主家が滅亡して戦国大名になった。太田資正は所領を失うが、生き延びて後北条氏の滅亡を見届けた。系統不詳の太田一族が大名となり、明治まで生き延びた)
- 里見氏(足利氏一門。久留里城などを拠点に安房国に勢力を拡大し、里見義堯は足利義明を擁して国府台合戦に参加した。その後は館山藩主家となるが、改易され一族は行方不明になった)
- 長野氏(藤原南家工藤氏流。伊勢の戦国大名長野工藤氏や日向国の伊東氏も同族である。長野業正は武田信玄の侵攻を幾度も食い止め、信玄の勢力拡大を遅らせた。扇谷上杉氏の断絶後は独立するが、長野業盛の代で武田氏に滅ぼされた)
- 沼田氏(系統不詳の一族。沼田城を拠点に勢力を張ったが内乱が相次いで衰退、最後は家臣の裏切りで滅亡した。沼田城はのちに真田昌幸の持ち城となった)
- 山内上杉氏(扇谷上杉氏と同族。関東管領を世襲した名門であったが、扇谷家と同様内乱で衰退した。後北条氏によって所領を失陥した後は上杉憲政が長尾景虎を養子に迎えて管領職を譲り、景虎は後に上杉謙信となった)
- 白河結城氏(白河氏とも言われる。藤原姓宇都宮氏族である。弱小領主であったが、徳川家康の次男結城秀康を養子に迎えて徳川一門となった。後に「松平氏」に改姓され「越前家」と呼ばれた)
- 宇都宮氏(宇都宮城を拠点に勢力を張った宇都宮氏の嫡家。奸臣の専横に悩まされ、城を奪われることもあった。豊臣政権下で改易され所領を失う)
- 佐野氏(藤原北家の一族。関東各地に分家があった。難攻不落と言われた唐沢山城を拠点に勢力を張り、長尾系上杉氏と後北条氏の間を彷徨った。詳しい理由が不明だが江戸時代に家康に改易され、一族は旗本になった)
江戸時代[編集]
江戸時代の大名は「親藩(徳川一門)」「譜代(徳川家古くからの家臣)」「願い譜代(元は外様だったが、懇願や婚姻関係や他の譜代の推薦などで譜代に準じた家臣)」「外様(関ヶ原の戦い以降に徳川家に従属した家臣)」に分けられる。石高は1万石以上が条件であり、それ以下は旗本に家格が下げられた。
また、領地・石高の大小、家格、徳川氏との親疎などから、「国主(国持)」「準国主(国持並)」「城主」「城主格」「無城(陣屋)」に分類される。
参勤交代という形式で大名達は定期的に江戸に向かい、職を与えられる。
江戸時代前期(徳川家光の代まで)は大名家の改易が相次いでおり、これは徳川の天下を強化する目的が合った。最も著名な事例は2代秀忠時代まで生き残った豊臣恩顧の福島正則の広島藩である。城壁修理の報告のわずかな不備を咎められて転封(事実上の改易)され、40万石の領地から1万石の領地へ移された。正則は激高するあまり自害したとも伝えられる。正則同様に豊臣恩顧だった加藤清正や加藤嘉明は2代目が同様に改易の憂き目に遭っている。
他に大名が改易される要因として、御家騒動が挙げられる。特に有名な御家騒動は最上騒動(最上氏、改易)、柳川一件(対馬宗氏、改易されず)、仙台騒動(伊達氏、改易されず)、筒井騒動(筒井氏、改易)、烏山騒動(那須氏、改易)、仙石騒動(仙石氏、減封処分)などである。
明治時代以降[編集]
明治維新後は版籍奉還によって各領主は藩知事に任じられ、廃藩置県ののち、罷免の後はほとんどが子爵以上の華族になった。大名の家臣(陪臣)で大身のものは男爵になる者もあった。その一方、江戸時代に冷遇された足利14代将軍義栄の子孫は江戸時代に脱藩したため、華族になる機会を失った。
関連項目[編集]