足利義明
足利 義明 あしかが よしあき | |||||||||||||||||||||||||
|
足利 義明(あしかが よしあき)は、戦国時代の武将。小弓公方の名前で知られる(自称)。
生涯[編集]
第2代古河公方・足利政氏の子、少なくとも次男以降として生まれる。幼名や生年は不詳だが、兄の高基の生年とされる文明17年(1485年)以降と考えられる。この義明という人物は一次史料が関連人物を通じても少なく、ほとんどが二次史料に頼っているため、今後の研究が待たれるところである。
長男で無かったためか、鶴岡八幡宮で空然(こうねん)を名乗って僧籍に入る。足利氏では次男以降の男子は後継者争いを避けるために寺院に入れられるのが慣例で、また長男に万一があった際のスペアとしても入れられるのが慣例でもあったためと推定される。ところが、父の政氏と長兄の高基が古河公方の座や基本方針などをめぐって対立して内紛になると、還俗して義明と名乗った。これは義明の野心とも、上総に勢力を張る真理谷武田家が千葉家と争い勝利するため、当時の真里谷家当主の武田恕鑑が義明を担ぎ上げたものともいわれる。
義明は小弓城を奪うと、そこを御所として自ら小弓公方を自称し、関東にはまたも、2つの公方家が存在する事態となった。天文3年(1534年)に武田恕鑑が死去すると、武田全鑑が跡を継いだがすぐに死去し、真理谷家は家督争いとなり、義明は介入。全鑑の弟と見られる武田信応を当主にした。
この間、関東南部では相模や武蔵に勢力を拡大していた北条氏綱の勢力が拡大。氏綱の勢力拡大を見た高基の子で第4代古河公方の晴氏は氏綱と手を結んで義明に対抗。一方、義明も氏綱の勢力拡大を危険視して決戦を決意。天文7年(1538年)に里見義堯ら房総半島の諸大名を率いた軍勢を率いて国府台で戦うことになる。この際、兵力では義明が上回っていたとされるが、それを良いことに自らの家格の高さ、己の武勇を恃んですっかり傲慢になっていた義明は義堯の諫めも聞かずに正面から正々堂々と戦う決戦を選択。これを見て義堯はこの戦いに勝ち目なしと見て積極的に戦わず、その他の房総の諸大名にしても義明の度重なる家中介入に不満を抱いており、足利軍は必ずしも一枚岩では無かった。義明は己の武勇を恃むだけあって自ら陣頭指揮をとって勇猛果敢に戦うなど、決して家格を恃んでいるような人物では無かったが、既に麾下の諸大名が一枚岩ではなく、北条軍の反撃を受けて嫡男・義純や弟の基頼は討死し、義明もそれを聞いて突撃して討たれたという(第1次国府台合戦)。