大崎氏

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大崎氏(おおさきし)は、室町時代奥州探題を世襲として奥州の大崎5郡(志田郡玉造郡賀美郡遠田郡栗原郡)を支配した守護大名である。戦国時代には完全な戦国大名化を成し得ず、伊達氏の圧迫や一族家臣団の内訌により衰退し、豊臣秀吉小田原征伐に参陣しなかったために改易されて滅亡した。

概要[編集]

起源[編集]

大崎家は南北朝時代に奥州探題として下向した斯波家兼を祖とする名門である[1]。この斯波家兼は足利尊氏の重臣で、足利将軍家の支流の一族である[1]。最初、奥州探題は斯波氏吉良氏畠山氏石塔氏ら4氏に就任の権利が与えられていたが、この4氏の争いで勝ち抜いたのが斯波氏であった[1]。なお、大崎家初代は家兼とされるのが一般的だが、異説として家兼の子である大崎直持を初代とする場合もある[1]

大崎家は奥州探題を世襲化し、大崎地方に勢力を拡大して奥州支配に勢威を振るった[1]。当時はまだ室町幕府の権威も安定化していた時代のため、奥州探題の権威も強く、伊達氏や蘆名氏葛西氏岩城氏など奥州諸大名は全て奥州探題の指揮下に置かれていた[1]

衰退・滅亡[編集]

戦国時代に入って室町幕府の権威が形骸化すると、それは奥州探題の権威の形骸化も意味していた。奥州では伊達氏の勢力拡大が進み、大崎氏は大永3年(1523年)には遂に歴代当主が任命されていた左京大夫の官職と陸奥国の守護職を伊達稙宗に奪われてしまう[2]。これは事実上、大崎氏による奥州探題としての支配の終焉を意味していた。

また戦国時代に入り実力本位の時代になると、大崎氏の家臣あるいはその保護下に置かれていた留守氏八幡氏国分氏などといった豪族黒川氏高泉氏真坂氏といった親族衆、氏家氏中目氏といった宿老衆の間でも動揺が広がり、大崎氏はそれらを従えるだけの実力を持てなかったために衰退が表面化する[2]

天文5年(1536年)には大崎氏の庶流あるいは家臣である氏家氏・一迫氏古川氏高泉氏などが当時の大崎家当主・大崎義直に対して反乱を起こすという事件が起こる[2]。いわゆる大崎内乱で、義直はこの反乱を独力で鎮圧できずに伊達稙宗に支援を求め、伊達稙宗の支援を得て古川城を落として鎮圧するに至る[2]。これを機に、実力はともかく形式的には上位にあった大崎と伊達の関係は完全に逆転し、大崎家は伊達家の従属下に置かれ、義直は稙宗の次男である大崎義宣養子に迎える事を余儀なくされた[2]

その伊達家でやがて稙宗とその嫡子・伊達晴宗による内乱が起こる。いわゆる天文の乱であるが、この内乱で伊達家が大崎家に干渉できなくなったのを好機として義直は義宣の排除を図り、天文19年(1550年)に義宣を殺害して大崎家の実権を取り戻し、同時に大崎氏を伊達氏の従属から解放した。

しかし天文の乱が終結すると再び伊達氏の干渉を受けるようになる。義直は天正5年(1577年)に亡くなり、息子の大崎義隆が跡を継ぐ。義隆は伊達政宗と抗争しながらも独立を維持し、一時は天正16年(1588年)の大崎合戦で政宗に勝利するなどしたが、伊達氏との力関係は明らかで最終的に奥州南部を制圧した政宗に服属する事を余儀なくされる。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、義隆は小田原に遅参したため秀吉の怒りを買って所領没収となり、これにより大崎家は改易されて滅亡した。

以後、義隆は秀吉が行なった朝鮮出兵などに参加して御家再興を計るも遂に成し得ないまま慶長8年(1603年)に死去した。旧臣による大崎・葛西一揆なども起きたが、秀吉の派遣した軍によって鎮圧されて大崎家の再興はならなかった。

大崎氏歴代当主[編集]

  1. 斯波家兼
  2. 大崎直持
  3. 大崎詮持
  4. 大崎満詮
  5. 大崎満持
  6. 大崎持詮(定詮、満詮) 
  7. 大崎教兼(持兼)
  8. 大崎政兼
  9. 大崎義兼
  10. 大崎高兼
  11. 大崎義直
  12. 大崎義宣(伊達稙宗の次男。歴代当主に含まない場合もある)
  13. 大崎義隆

大崎氏の一族家臣[編集]

黒川氏

宮崎氏

氏家氏氏家直元と同族)

仁木氏

一迫氏

一栗氏

米泉氏

伊庭野氏

新井田氏

古川氏

湯山氏

その他

参考文献等[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e f 『戦国大名106家、最強の系図』(小和田哲男著。新人物往来社。2009年)23頁。
  2. a b c d e 『戦国大名106家、最強の系図』(小和田哲男著。新人物往来社。2009年)24頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]