石高制
石高制(こくだかせい)とは、米など土地により収穫された量(すなわち石高)に基づいて税を決定する租税制度のことである。安土桃山時代から江戸時代の基本的な租税制度となり、物納による貢租は太平洋戦争終戦後まで残った。
概要[編集]
安土桃山時代より以前は、田畑などに町、反、畝、歩などの土地の面積の広さによって租税が決定されていた。しかし、織田信長の時代からこの制度が見直されるようになり、織田政権内の領国では検地が行われて石高制への移行が進められた。ただし、信長の時代は不完全に終わり、信長没後に天下人となった豊臣秀吉により、土地の収穫量に基づいて租税を決定する太閤検地、天正の石直しが行われるようになった[1]。
この収穫量を基礎にして、農民の年貢、あるいは賦役を決定するようになった。豊臣政権の大名は太閤検地により石高が算定されるようになり、知行を「何万石」宛がうという知行高制度が確立した。
江戸幕府が成立すると、太閤検地が基本的に踏襲されて石高制がそのまま採用され、国内の統一的な社会的生産力の表示方法となり、大坂に残存した領地の米を売買する蔵屋敷と共に『米本位制経済』と言える体制となった。知行が与えられない幕臣の俸禄も扶持取りや切米取りといった蔵米が支給のベースとなった。
なお、江戸幕府が大名に与えた石高を表高といい、藩内の新田開発などによりその表高より収穫量を増加した石高を内高といった[1]。例えば、長州藩は表高37万石であるが、幕末までに新田開発や藩政改革により実高は100万石に達していたとする説がある。
王政復古後の明治政府にもその初期に石高制度は採用された。
明治6年(1873年)の地租改正により土地に係る租税は金納になり、産地の地主層が米を直接換金するしくみが形成されると共に、石高による年貢制度は廃止[1]された一方、小作農は小作料を物納することが維持され、1947年の農地改革でようやく小作料の物納が禁止された。