間部氏

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間部氏(まなべし)とは、日本氏族である。江戸時代譜代大名として上野国高崎藩主、越後国村上藩主、越前国鯖江藩主と各地を転任した。家格は陣屋。江戸城内の詰間は雁間。家紋は丸に三引両(横三引、丸に三銀杏)。

概要[編集]

藤原氏の支流で、安土桃山時代塩川詮光が母方の真鍋姓を名乗って徳川家康に仕えた。子孫は数代の間に西田姓を称したが、江戸幕府に願い出て真鍋姓に改姓して表記を間部と改めた。

江戸時代中期に現れた間部詮房西田清貞の嫡子で、第5代将軍徳川綱吉の甥・徳川綱豊が甲府藩主時代のときから腹心として重用され、能楽者からのし上がった。綱豊が家宣と改めて綱吉の世子に定められるとさらに重用され、幕府旗本に列せられる。さらに宝永3年(1706年)に1万石の大名に封じられ、宝永6年(1709年)に家宣が第6代将軍に就任すると儒学者新井白石と共に家宣の側用人として大いに権勢を振るった。家宣の死後、その子の家継が第7代将軍に就任すると家継が少年であったことから詮房が事実上の後見人として天下の差配を行なった。宝永7年(1710年)には上野国高崎藩5万石の藩主に栄進し、さらに若年寄格や老中格側用人などを歴任した。しかし享保元年(1716年)に家継が夭逝して吉宗が第8代将軍に就任すると詮房は失脚し、越後国村上藩へ懲罰的に移封させられた。そして享保5年(1720年)に詮房が病死すると、詮房の弟で養子詮言が同じ5万石ではあったが、越前国鯖江[注釈 1]に懲罰的に移封を命じられて間部氏は没落した。

その後、江戸時代後期に入ると間部詮勝が現れ、京都所司代大坂城代老中を歴任した。天保の改革においては水野忠邦と対立して老中を辞職している。幕末の動乱期に入ると大老井伊直弼の要請を受けて老中に復職し、勝手掛や外国掛に任命されて将軍継嗣問題日米修好通商条約問題などで井伊と共に難局に取り組んだ。しかし井伊とやがて対立して安政6年(1859年)に失脚し、その4年後には老中在任中の不正を理由にして幕府より1万石を削減され、さらに隠居蟄居を命じられたが、その後は大過なく明治維新を迎えた。

明治17年(1884年)の華族令により、間部氏は子爵に封じられた。

歴代当主[編集]

  1. 間部詮房(あきふさ)従四位下越前守
  2. 間部詮言(あきとき)従五位下下総守
  3. 間部詮方(あきみち)従五位下。丹後守
  4. 間部詮央(あきなか)従五位下。主膳正
  5. 間部詮茂(あきとお)従五位下。下総守。
  6. 間部詮熙(あきひろ)従五位下。若狭守
  7. 間部詮允(あきざね)従五位下。主膳正。
  8. 間部詮勝(あきかつ)従四位下。下総守。
  9. 間部詮実(あきざね)従五位下。安房守
  10. 間部詮道(あきみち)正五位。下総守。

脚注[編集]

注釈
  1. 鯖江を含む越前国丹生郡は、吉宗が紀州藩を継ぐ前に藩主だった葛野に代官陣屋があったが、鯖江は無城・無陣屋で間部家が自腹で自領の整備を迫られた。