天保の改革
天保の改革(てんぽうのかいかく)とは、江戸時代後期の天保12年(1841年)から天保14年(1843年)にかけて行なわれた江戸幕府の幕政改革である。享保の改革・寛政の改革と並ぶ江戸幕府の幕政改革と言われている。幕政改革の主宰者は老中の水野忠邦である。
概要[編集]
改革前の状況[編集]
江戸幕府第11代征夷大将軍・徳川家斉の50年に及ぶ大御所時代の結果、江戸幕府の財政は放漫財政で著しく悪化した。この間、家斉はほとんど無策で実際の政治は水野忠成ら老中に一任し、その老中らも無策で結果的に幕府の権威はそのために衰退していた。家斉が天保8年(1837年)に嫡子・家慶に将軍職を譲って隠退した後も大御所時代の放漫や腐敗は続き、結果的に同年、元大坂町奉行与力の大塩平八郎が幕府に対して反乱を起こすに至った(大塩平八郎の乱)。この乱は規模も小さく、すぐに鎮圧されたが、問題は元幕臣が反乱を起こしたという事実のほうだった。この反乱に続くように生田万の乱が起こり、さらに摂津や佐渡においても同様に反乱、打ちこわしが相次いで、幕府の支配体制は徐々に限界が近づいていた。
このような中で天保12年(1841年)に大御所である老害家斉が遂に死去した。家斉の死去により幕政の実権は家慶に移り、家慶は老中・水野忠邦と協調し、弛緩した幕府や風紀再建のために幕政改革を開始する。古き良き時代とされている享保・寛政の改革を復古し、幕府の権威回復を目指すというのを改革の着地点とした。
なお、当時の天皇は仁孝天皇である。
改革の内容[編集]
人事[編集]
- 忠邦により、前政権時代の家斉を支えた老中・側近などが処罰される。
- 寛政の改革の復古のため、信濃松代藩主・真田幸貫を老中に任命(幸貫は松平定信の次男で8代将軍吉宗の曾孫)。
- 町奉行に遠山景元、鳥居耀蔵、海防方に江川英龍といった人材を登用する。
財政[編集]
社会[編集]
- 倹約令と同様に質素倹約を目的として、民衆に対して寄席減少、芝居の統制、出版統制など。これは反幕運動や尊王運動の取り締まりも意味していた。
- 人返し令を出し、江戸や大坂など大都市圏に出稼ぎに来ていた百姓を強制的に出身地に送り返す。出稼ぎは藩主らの許可制とした。ただし江戸に住む者で長期にわたる場合は影響が大きいとして例外とされた。
対外[編集]
結果[編集]
この改革は2年間余りにわたって180も法令を出すなど余りに厳しかったのと、現実社会をほとんど無視していたことから大名・庶民を問わずに多くの反発を出すことになる。水野はそれを鳥居とその仲間による密偵などで厳しく弾圧したため、かえってさらなる反発を生み出した。また、鳥居の悪謀で多くの幕臣が冤罪で失脚させられるなど、人材の無駄な損失も招いた。
倹約令・風俗統制・株仲間の解散にしても水野は物価高騰を抑えようという目的で行なったこともあるのだが、そもそも物価騰貴は幕府による貨幣の大量改鋳と流通機構の構造変化が主な要因だったのでこれらはほとんど効果が無かった。
結局、天保14年(1843年)6月に水野が上知令を出したのを契機に、その反発が幕府内部にまで拡大した。実は家斉の死の前年から三方領知替えが構想されていたが、家斉の死去と庄内藩などの反対で家慶はこれを断念していた。にも関わらず、水野は江戸と大坂の10里四方を幕府の天領とする上知令を出し、これが老中の土井利位や尾張徳川氏ら多くの幕閣から反対されたため、同年閏9月に撤回せざるを得なくなる。そして水野はこの失敗の責任をとって老中を辞職することを余儀なくされ、天保の改革はわずか2年余りで失敗に終わったのであった。
上知令の失敗は幕府権力の衰退を物語っていた。上知令とは一種の移封政策であり、これは江戸時代前期の徳川家康・徳川秀忠・徳川家光の3代にわたってはたびたび行なわれていたことであり、それに対して大名が幕府に異を唱えるなど考えられないことであった。にも関わらず、実行できずに挫折したことは、将軍の重要な領地裁定権が既に機能していなかったことを意味している。結局、幕政の立て直しはできずに滅亡の道を向かって突き進んでゆくことになるのであった。
その後[編集]
水野の失脚後、老中の土井利位が幕政をとるが、天保15年(1844年)に土井は外交問題の紛糾などから失脚し、水野が家慶により老中に再任される。水野は自分を失脚に追い込んだ土井や鳥居らを徹底的に粛清して再び幕政をとるが、かつてのような改革時代のように大きな動きは見せず、結局、家慶により新たに任命された老中・阿部正弘が水野の後に幕政を取り仕切り、幕末に向かってゆくことになる。