鯖江藩
鯖江藩(さばえはん)は、越前国今立郡西鯖江村の鯖江陣屋(現在の福井県鯖江市)に藩庁を置いた藩である。藩主家は譜代大名の間部氏。
藩史[編集]
猿楽師出身ながら、第6代将軍・徳川家宣と第7代将軍・徳川家継に仕えて老中格側用人として権勢を振るった間部詮房は、家継没後に第8代将軍となった徳川吉宗[注 1]により失脚の上、僻地の越後村上藩に移封となり、享保5年(1720年)に死去した。跡を継いだ弟の詮言は、家督相続は認められたものの、幕命により越前鯖江に移封となった。石高は同じ5万石であるが、当時の鯖江は誠照寺の門前集落に過ぎない村上以上の僻地であり、事実上の減封に等しかった。これは、亡き詮房が家宣・家継時代に権勢を振るったことを恨んだ幕府首脳部による報復と言われる。
このため、間部氏はまず城下町の建設から始めなければならなくなった。幸い、鯖江は三国湊から日野川を遡った藩領の白鬼女が物資の集散地として機能したので、河川の舟運で盛んになった。この藩は5万石の小藩であるため、藩政機構の整備も一から始めることになる。勘定奉行、郡奉行、寺社奉行などは全て兼務とされ、農村は郡奉行が代官を支配し、代官は大庄屋の支配頭となり、大庄屋は6つの組に1名ずつ置かれ、各村に庄屋、長百姓、百姓代が置かれた。教育にも力を注ぎ、天明8年(1788年)に儒学者の芥川元澄を登用し、文化11年(1814年)に藩校・進徳館を建設し、江戸藩邸には惜陰堂という稽古所が設置されるほどだった。
ただ、この藩の藩主は幕末の詮勝を除くと影が薄くて凡庸な者が多く、多くの藩主は江戸で生活を続けて江戸でそのまま没している。鯖江で死んでいるのは2人のみである。
幕末の鯖江藩主・間部詮勝は儒学を重んじて文治政治を発展させ、物産支配所を設置して藩政改革に取り組むなど、有能な人物だった。詮勝のその手腕は幕府にも認められ、寺社奉行から大坂城代、京都所司代を経て西の丸老中となり、さらに1万石の加増と鯖江城の建設許可まで下りるほどの活躍を見せた[注 2]。詮勝は幕末期に井伊直弼が大老になると直弼と連携し、老中に就任して幕政を直弼と共同で参画した。そのため、直弼の圧政に賛同する者として「井伊の赤鬼」に対して「間部の青鬼」と称されるほどであったが、直弼の安政の大獄が余りに苛烈になると詮房はついていけなくなり、自ら老中を辞職して幕政から退いた。しかし、桜田門外の変で直弼が横死してその2年後に幕政が転換すると、詮勝は直弼時代の失政を咎められて1万石の削減、並びに隠居謹慎を命じられることになった。
詮勝の跡は、詮実、詮道と続いて、明治維新を迎えた。詮道の時代に藩士に対して時勢が容易ではないことを諭した「書下」が出されているが、これは隠居の詮勝が出したとも言われている。詮道は後に明治政府に属し、版籍奉還で鯖江藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県によって鯖江藩は消滅した。
歴代藩主[編集]
- 間部氏
譜代。5万石→4万石。
代 | 氏名 | 官位 | 在職期間 | 享年 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 詮言 まなべ あきとき |
従五位下 下総守 |
享保5年 - 享保9年 1720年 - 1724年 |
35 | 越後村上藩から転封。 |
2 | 詮方 まなべ あきみち |
従五位下 若狭守 |
享保9年 - 宝暦11年 1724年 - 1761年 |
76 | 実父は間部詮貞。 |
3 | 詮央 まなべ あきなか |
従五位下 主膳正 |
宝暦11年 - 明和8年 1761年 - 1771年 |
34 | |
4 | 詮茂 まなべ あきとお |
従五位下 下総守 |
明和8年 - 天明6年 1771年 - 1786年 |
48 | 前藩主詮央の異母弟。 |
5 | 詮熙 まなべ あきひろ |
従五位下 主膳正 |
天明6年 - 文化8年 1786年 - 1812年 |
42 | |
6 | 詮允 まなべ あきさね |
従五位下 主膳正 |
文化9年 - 文化11年 1812年 - 1814年 |
25 | |
7 | 詮勝 まなべ あきかつ |
従五位下 下総守 |
文化11年 - 文久2年 1814年 - 1862年 |
81 | 前藩主詮允の異母弟。 文久2年(1862年)に石高1万石を減封。 |
8 | 詮実 まなべ あきざね |
従五位下 安房守 |
文久2年 - 文久3年 1862年 - 1864年 |
37 | |
9 | 詮道 まなべ あきみち |
従五位下 下総守 |
元治元年 - 明治4年 1864年 - 1871年 |
40 | 前藩主詮実の異母弟。 |