渡邉恒雄

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渡邉 恒雄 (わたなべ つねお、1926年5月30日 - ) は、東京都出身の実業家企業家読売新聞社社長・主筆、プロ野球読売ジャイアンツオーナーを務めた。圧倒的な世論操作力で君臨し、メディア権力の実力者として影響力を保っている。姓は「渡辺」とも書かれている。通称は「ナベツネ」であるが、かつては「ワタツネ」とも言われていた。

略歴[編集]

東京府出身で、開成中学東京大学を経て読売新聞社に入社する。読売の社主である正力松太郎に見出されて政治部の記者として当時、政界の実力者・黒幕的存在だった大野伴睦の番記者となったことが縁で大野から目をかけられるようになる。渡辺は大野に可愛がられて足しげく大野の屋敷に通い、大野が国会に出かける際には自動車に同乗し、自民党政治家ゴーストライターを引き受けて週刊誌の論説執筆を任されるようになり、さらには大野派の閣僚推薦権まで掌握するようになった。

大野からは絶大な信任を得ており、1960年代当初に日本韓国の国交実現に向けた両国要人の裏交渉が進められていた際、大野は日韓関係の国交実現に消極的だったが、渡辺が大野を後押しして国交実現に貢献したという。

昭和39年(1964年)に大野が病死すると、大野が存命中に盟友関係になっていた中曽根康弘に近づいてゆく。中曽根が昭和34年(1959年)に第2次岸信介内閣科学技術庁長官として初入閣した際にその人事を決定づけたのは渡辺を介して取り付けた大野の支持だったのである。なお、これらの活動を渡辺は正力の信任を得ていたとはいえ、一介の新聞記者の身分でこなすという異才を見せている。そのため、昭和57年(1982年)の中曽根政権の誕生の立役者にもなっている。

正力の没後にはその長男・正力亨を名誉オーナーに祭り上げる形で自らがオーナーに就任する。そして本来はそこまで興味が無かったというプロ野球に対しても権力者として介入し、巨人の人気を利用して読売新聞の大部数を成し遂げるようになる。また、読売グループ自体で財務省の大物OBを受け入れたりするなどして、現在まで政治家・大衆・中央官僚の3つにわたって隠然たる影響力を誇っている。