武田 信澄(たけだ のぶずみ、永禄3年(1560年)[1] - 天正4年12月27日[1](1577年1月15日))は、戦国時代の武将で甲斐武田氏の一族。武田信虎の孫で武田信玄の甥に当たる。仮名は平太郎[1]。
武田信廉の長男[1]。兄弟姉妹に娘(仁科盛信室)、娘(河窪信俊室)、娘(小笠原信嶺室)、救山宗温、娘(大久保忠教室)ら。17歳で早世のため見るべき事績はない[1]。法名は雪庵宗梅禅定門[1]。