国際派 (日本共産党)

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国際派(こくさいは)は、1950年1月6日コミンフォルム批判を契機として日本共産党が分裂した際の反主流派。志賀義雄宮本顕治袴田里見亀山幸三など。日本共産党全国統一委員会(1950年9月~10月)、日本共産党全国統一会議(1950年12月~1952年10月)を組織して、主流派の所感派と対立した。宮地健一によると国際派の割合は党員の10%、専従の30%だった[1]

概要[編集]

1950年6月6日に公職追放された日共中央委員24名の内、袴田里見亀山幸三神山茂夫春日庄次郎岸本茂雄蔵原惟人宮本顕治志賀義雄遠坂寛の9名が国際派の立場を取った。志賀、神山の2名は衆議院議員。所感派の9中央委員が地下に潜行し自派のみの臨時中央指導部を任命すると、6月29日に死去した岸本、朝鮮労働党に移った遠坂を除く国際派の7中央委員は全国統一委員会を組織した。のちに志賀は所感派に屈服、神山は独自行動を取り、全国統一委員会を離れた。国際派の中には全国統一委員会派以外にも、日本共産党国際主義者団野田弥三郎)、団結派中西功)、日本共産党統一協議会福本和夫)、神山グル—プ(神山茂夫)などの分派が存在した。

日本共産党全国統一委員会[編集]

1950年9月1日に関西地方委員会、長崎・茨城・福島各県委員会、5つの地区委員会によって結成され、次の12名を全国委員として選出した。多田留治(中央委員候補)、遠坂良一(中央委員候補)、山田六左衛門(関西地方委員会議長)、三羽嘉彦(東北地方委員)、田中堯平(国会議員)、津々良渉(全労連グループ)、原田長司(中央委員候補、中国地方委員会議長)、増田格之助(統制委員)、宮島豊(九州地方委員、長崎県委員長)、宮川寅雄(北海道地方委員)、西川彦義(全金属労組中央グループ)、中野重治[2]。直後の9月3日に中国共産党機関紙『人民日報』が臨時中央指導部のもとへの団結を促したため、9月11日に臨中側に統一を申し入れたが拒否に会い、さらに不利な立場へと追い込まれ、10月22日に声明を出し自ら組織の解散を表明した[3]

日本共産党全国統一会議[編集]

所感派との統一失敗後、反対派の再結集を目指す動きが強まり、1950年12月末に宮本顕治蔵原惟人春日庄次郎袴田里見亀山幸三遠坂良一原田長司ら旧全国統一委員会の指導分子が中心となり全国的な再結集を決定した。1951年1月1日付で機関紙『解放戦線』、同20日付で党内指令紙『党活動』、3月1日に理論機関誌『理論戦線』を創刊した。4月の地方選挙は所感派・国際派の双方が独自候補を立てる異色の選挙戦となった。その後、関西地方統一委員会(山田六左衛門議長)・春日・亀山の復帰表明、袴田の自己批判、春日派と宮本派の対立、コミンフォルム・中共の主流派支持表明などにより、10月1日に声明を出し自ら組織の解散を表明した[3]

その他の党員一覧[編集]

新日本文学会
東大細胞

脚注[編集]

  1. コミンフォルム判決による大分派闘争の終結 宮地健一のホームページ
  2. 法政大学大原社研 北京人民日報の提言と党内分派問題〔日本労働年鑑 第24集 735〕
  3. a b 小山弘健『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年、「第二章 大分派闘争の展開」

関連項目[編集]