佐多稲子
佐多稲子(さた いねこ、1904年6月1日 -1998年10月12日)は、プロレタリア文学の作家。
人物[編集]
長崎市生まれ。家が貧しく、少女時代からキャラメル工場で働く。上京して結婚するが失敗し、堀辰雄、中野重治らと知り合う。1926年、文藝評論家の窪川鶴次郎と結婚。28年「キャラメル工場から」を発表する。29年に書いた「レストラン・落陽」には、川端康成の結婚するはずだった伊藤初代が出てくるが、川端はそれに気づかなかった。32年、日本共産党に入る。35年には逮捕される。36年、窪川の不倫に際会し「くれない」を書く。
1945年、窪川と離婚。佐多稲子の筆名で活動を再開。1945年11月に羽仁説子、宮本百合子、加藤シヅエ、山本杉、赤松常子、山室民子、松岡洋子とともに呼びかけ人となって婦人団体結成の準備を進め、1946年3月に婦人民主クラブを創立した[1]。1946年10月に共産党に再入党するが、1951年3月に婦人民主クラブに対する党の干渉に反対したとして除名された。1955年の六全協で復党[2]。1961年7月に安部公房、大西巨人、岡本潤、栗原幸夫、国分一太郎、小林祥一郎、小林勝、竹内実、菅原克己、野間宏、針生一郎、檜山久雄、花田清輝と党員文学者14名の連署で党新綱領批判の意見書を党中央に提出[3]。同年中に花田や安部らは除名されたが、佐多や国分らは自己批判を党機関紙に書いて党に留まる。1964年6月に渡部義通、朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐藤忠良、野間宏、本郷新、丸木位里、丸木俊、宮島義勇、山田勝次郎と党員文化人12名の連署で党改革の意見書を党中央委員に送付。10月に党指導部批判の声明を発表し、11月に自己批判した本郷、宮島を除く全員が除名された[4]。
『私の東京地図』(1949年)などを書く。1962年『女の宿』で女流文学賞受賞。1970年から85年、婦人民主クラブ委員長。1972年、長崎の原爆を描いた『樹影』で野間文芸賞受賞、76年「時に佇つ」で川端康成文学賞受賞。83年『夏の栞ー中野重治を送る』で毎日芸術賞受賞。83年、朝日賞受賞。85年、樋口一葉の「たけくらべ」について、最後の美登利の変貌は初潮ではなく水揚げではないかと述べ、前田愛らと論争を起こした。86年に読売文学賞を受賞した随筆集『月の宴』に、「たけくらべ」についてのそのエッセイも入っている。94歳で没。プロレタリア文学の作家としては最も長命を保って評価された幸運な作家だった。