志賀義雄
志賀 義雄(しが よしお、1901年(明治34年)1月12日 - 1989年(平成元年)3月6日)は、社会運動家、政治家。平和と社会主義議長。元衆議院議員(6期)、日本共産党中央委員会政治局員。
経歴[編集]
福岡県門司市(現・北九州市)生まれ。旧姓は川本。1906年母方の祖父の養子となり、志賀姓に。1913年山口県阿武郡萩町(現・萩市)菊屋横町に移住。山口県立萩中学校(現・山口県立萩高等学校)[1]、第一高等学校を経て、1922年東京帝国大学文学部社会学科に入学。新人会に参加、学生連合会を結成[2]、1923年11月日本共産党に入党[3]。1924年の解党後、雑誌『マルクス主義』に村田省造や松村徹也の筆名で論文を執筆[4]。1925年東大文学部社会学科卒業[5]、産業労働調査所(産労)に入所[3]、1927年1月福本和夫の後任で同党中央常任委員・政治部長[6]、『マルクス主義』主筆。1928年三・一五事件で徳田球一らとともに検挙され、1932年10月治安維持法改正前の最高刑である懲役10年が確定、満期後も予防拘禁。日本の敗戦で解放されるまで「獄中十八年、非転向」を貫く。
敗戦後の1945年10月10日、徳田、金天海、黒木重徳らとともに府中刑務所から出獄、『人民に訴ふ』を発表。まもなく徳田、金、神山茂夫、宮本顕治、袴田里見、黒木とともに党拡大強化促進委員会を結成し、同年12月の第4回党大会でこの7人が中央委員となった。1946年2月の第5回党大会で政治局・書記局の設置が決定され、徳田、野坂参三、志賀の3人が政治局員と書記局員の兼任者となった[7]。同年4月の第22回衆議院議員総選挙に大阪から出馬し、初当選。1947年11月の第6回党大会で8人の綱領起草委員の1人となった。1950年1月のコミンフォルム批判をめぐる党内対立では国際派に所属し、いちはやく主流派の所感派を批判[7]。同年6月6日GHQによる日共中央委員24人全員の公職追放令で議員資格を喪失、以後4年半地下潜行[1]。1951年9月3日中国共産党機関紙『人民日報』が臨時中央指導部のもとへの団結を促したため、のち自己批判して主流派に復帰。1955年1月大阪で公然化、2月の第27回衆議院議員総選挙で議員に再選、3月臨時中央指導部員。1955年7月の第6回全国協議会(六全協)で中央委員、中央委員会常任幹部会員[7]。
1964年5月15日、衆議院本会議で党議に反して部分的核実験停止条約批准に賛成票を投じ[8]、同月21日、志賀に同調し参議院本会議で賛成票を投じることを表明した鈴木市蔵とともに党議違反で除名された[9]。7月1日、鈴木とともにソ連支持の「日本のこえ同志会」を結成[10]。12月2日、鈴木、神山茂夫、中野重治とともに「日本共産党(日本のこえ)」を結成[8]、全国委員長[6]。1967年1月の第31回衆議院議員総選挙では落選。1968年3月「日本のこえ」に改称[11]。1977年3月「平和と社会主義」に改称。1979年12月の日ソ両党の関係正常化を受け、1980年委員長を辞任、顧問に退くが、1981年6月「海の向うの要請による」として新設された議長に就任した[12]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『民主主義日本と天皇制』(新生社、1946年)
- 『日本革命運動史の人々』(暁明社、1948年)
- 『財政とインフレーション』(暁明社、1948年)
- 『予算の階級性』(真理社[党活動家必携叢書]、1948年)
- 『世界と日本』(暁明社、1948年)
- 『もちはなぜまるいか――科学のあたらしい発展のために』(三一書房、1948年)
- 『戦後日本の危機と財政』(暁明社、1949年)
- 『国家論』(ナウカ社[ナウカ講座]、1949年)
- 『日本革命運動の群像』(合同出版社[合同新書]、1956年/新日本出版社、1963年)
- 『日本論――マルクス・エンゲルス・レーニン』(日本共産党中央委員会出版部、1961年)
- 『日本帝国主義について』(三一書房、1972年)
- 『日本共産主義運動の問題点』(読売新聞社、1974年)
- 『日本共産党史覚え書』(田畑書店、1978年)
- 『志賀義雄選集(全2巻)』(五月書房、1991-1992年)
共著[編集]
- 『獄中十八年』(徳田球一共著、時事通信社、1947年/日本共産党出版部、1948年/大月書店[大月新書]、1955年/講談社[講談社文芸文庫]、2017年)
- 『若い人々え』(徳田球一、野坂参三、野坂竜共著、共同図書出版社、1948年)
- 『みなさんに訴える――共産主義者の良心と信念』(鈴木市蔵共著、刀江書院、1964年)
編書[編集]
- 『千島問題――アジア集団安全保障への道』(日本のこえ出版局、1971年)
- 『国際通貨問題と労働者階級』(日本のこえ出版局、1971年)
- 『アジア集団安全保障とクリール(千島)問題』(四谷書林、1973年)
- 『部分核停条約から全面核停条約への二十年――核軍拡の責任は米帝国主義にある』(志賀義雄他編、平和と社会主義全国委員会、1984年)
訳書[編集]
- 『レーニン主義の哲学――原名・戦闘的唯物論者レーニン』(デボーリン著、希望閣、1925年)
- 『レーニンの戦闘的唯物論』(デボーリン著、希望閣、1927年)
出典[編集]
- ↑ a b 志賀義雄(しがよしお) 萩の人物データベース
- ↑ 栗原幸夫「志賀義雄」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、609頁
- ↑ a b 大泉誠「志賀義雄」、現代革命運動事典編集委員会編『現代革命運動事典』流動出版、1981年、119頁
- ↑ 二村一夫「雑誌『マルクス主義』の執筆者名調査」(『二村一夫著作集』第8巻)
- ↑ 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
- ↑ a b 世界大百科事典 第2版の解説 コトバンク
- ↑ a b c 小山弘健著、津田道夫編・解説『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年
- ↑ a b 社会問題研究会編『増補改訂'70年版 全学連各派――学生運動事典』双葉社、1969年、144頁
- ↑ 鈴木正節「日本のこえ」、現代革命運動事典編集委員会編『現代革命運動事典』流動出版、1981年、222頁
- ↑ 『朝日年鑑 1987年版』朝日新聞出版、1987年、74頁
- ↑ 日本共産党中央委員会出版局編『政治年鑑 1973年版』日本共産党中央委員会出版局、1973年、164頁
- ↑ 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、164-165頁