長谷川慶太郎
長谷川 慶太郎(はせがわ けいたろう、昭和2年(1927年)11月29日 - 令和元年(2019年)9月3日)は、日本の経済評論家。日本個人投資家協会理事長。
経歴[編集]
京都府京都市出身[1]。旧制八高(理科)を経て、1953年(昭和28年)大阪大学工学部冶金学科卒[2]。新聞記者、雑誌編集者、証券アナリストを経て[3]、1963年(昭和38年)に経済評論家として独立[4]。
大学卒業から評論活動に専念するまでの経歴については以下の通り。
- 「…約10年間、大阪の金属業界紙記者としてペンを持ち、証券アナリストを経て…」(『現代マスコミ人物事典』1989年)[5]
- 「産業新聞社、投資信託事情調査会で証券アナリストとして活躍」(『昭和の思想家67人』2007年)[2]
- 「産経新聞社記者、雑誌編集者、証券アナリストを経て」(『最強の日本経済が世界を牽引する』2016年)[6]
- 「業界新聞に15年いた」(月刊『到知』2019年5月号)[3]
1973年(昭和48年)に初の著書『LNGとアルミニウム』(小林藤次郎との共著、アルミ製品開発振興会編、軽金属出版)を刊行。1978年(昭和53年)に初の単著『韓国の経済』(教育社入門新書)を刊行。韓国のGNPが「神奈川県に匹敵しつつある」と喚起し、韓国が経済成長に成功しつつあることを先駆的に指摘する[7]。1983年(昭和58年)に『世界が日本を見倣う日』(東洋経済新報社)で第3回石橋湛山賞を受賞[3]。デフレ時代の経営戦略を指摘してベストセラーとなった『日本はこう変わる』(徳間書店、1986年)など[5]、生涯で200冊超の著書を刊行する[3]。1995年(平成7年)に日本個人投資協会を設立して理事長に就任[8]。2019年(令和元年)9月3日、心不全のため東京都内の病院で死去。91歳没[1]。
日本共産党との関わり[編集]
元日本共産党員。学生時代の一時期、志賀義雄の秘書を務めた[9]。党が分裂した「五〇年問題」の際には国際派に所属。1952年の枚方事件で小隊長として小松正義氏宅襲撃に参加し、警察官に逮捕された[10]。この事件で共産党は三中隊からなる一大隊を組織、第一中隊は二小隊で編成され、第一小隊の隊長が長谷川であった[10]。1956年に地裁で懲役3年、執行猶予5年の判決を受け、1960年に最高裁で判決が確定した[3]。
経済評論家であるが、「軍事技術論」(田辺振太郎『技術論』青木書店、1960年、第13章)[11]、『組織の戦闘力』(東洋経済新報社、1986年)、『軍事頭脳を持っているか』(青春出版社、1997年)、『新「戦争論」の読み方』(PHP研究所、2002年)など軍事に関する著作も発表している。著書では敗戦時に"どうして戦争をやったのか"に関心を持ち、軍事に興味を抱いたと書いているが、共産党の武装闘争に参加した体験の影響も指摘されている[10]。
著書[編集]
論文[編集]
脚注[編集]
- ↑ a b 経済評論家の長谷川慶太郎氏死去 神戸新聞NEXT(2019年9月24日)
- ↑ a b 鷲田小彌太『昭和の思想家67人』PHP新書、2007年
- ↑ a b c d e 長谷川慶太郎が「警察のお世話」になった20代の辛苦 到知出版社(2019年9月15日)
- ↑ 長谷川慶太郎(はせがわ けいたろう)とは コトバンク
- ↑ a b 「表現の自由」研究会編著『現代マスコミ人物事典』二十一世紀書院、1989年、329-330頁
- ↑ 最強の日本経済が世界を牽引する/長谷川慶太郎/著 オンライン書店e-hon
- ↑ 諏訪兼位、田口富久治、岩間優希、影浦順子、竹川慎吾、小島亮『伽藍が赤かったとき―1970年代を考える―』中部大学(中部大学ブックシリーズ Acta)、発売:風媒社、2012年、120頁
- ↑ 長谷川慶太郎「日本個人投資協会・伸びる業界と伸びない業界・JR東海株とヤマハ株等」mine(2019年3月22日)
- ↑ 『諸君』第10~12号、文芸春秋、1993年、147頁
- ↑ a b c 安部桂司「日共の武装闘争と在日朝鮮人」『アジア研究所紀要』42号、2015年
- ↑ 阪部有伸「軍事技術の概念規定に関する一考察」『経済論叢』141巻2・3号、1988年3月