五〇年問題
五〇年問題(ごじゅうねんもんだい)とは、1950年1月のコミンフォルム批判を契機として、日本共産党が所感派と国際派に分裂・抗争した問題。五〇年分裂とも。
概要[編集]
1950年1月6日、コミンフォルムの機関誌『恒久平和と人民民主主義のために』第1号にオブザーバー署名の論文「日本の情勢について」が掲載され、日本共産党野坂参三政治局員の米軍解放軍規定・占領下平和革命論を「マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないもの」だと厳しく批判した(コミンフォルム批判)。党中央の実権を握っていた主流派の徳田球一、野坂参三、伊藤律、志田重男らは、1月12日に占領下という条件を慎重に考慮すべきとする論文「"日本の情勢について"に関する所感」を発表したことから、「所感派」と呼ばれた。一方、反主流派の志賀義雄、宮本顕治、袴田里見、亀山幸三らは、コミンフォルム批判や中国共産党の「所感」批判など国際的批判の無条件受入れを主張したことから、「国際派」と呼ばれた。1月17日に中国共産党が機関紙『人民日報』でコミンフォルム批判に従うよう勧告したため、所感派は第18回拡大中央委員会を開いて国際的批判の受け入れを決議したが、その後も所感派と国際派の対立が続いた。
GHQマッカーサー総司令官は1950年6月6日に日共中央委員24人全員の公職追放を指令、翌日に機関紙『アカハタ』編集関係者など17人の公職追放を指令、6月25日朝鮮戦争が勃発すると翌日に『アカハタ』の発行停止を指令した。7月には政府の出頭命令を拒否したとして徳田、野坂、伊藤、志田、長谷川浩、紺野与次郎、春日正一、竹中恒三郎、松本三益の9人の所感派の中央委員に対し団体等規正令違反で逮捕状が出され、日共は事実上非合法化された。この前後から所感派は正規の政治局会議や中央委員会を開くことなく非公然体制に移行した。6月7日に公然組織として「臨時中央指導部」(椎野悦朗議長)を設置し、党中央が事実上分裂。10月以降に徳田、野坂、西沢隆二(ぬやまひろし)らが「人民艦隊」と称する船で中華人民共和国に密航し、北京に「北京機関」と称する中央指導部を設置した。国際派の側は「日本共産党全国統一委員会」や「日本共産党全国統一会議」を組織し所感派に対抗した。
1951年2月に国内の所感派は第4回全国協議会(四全協)を開催し、「軍事方針」を採択、国際派を分派と規定した。同年8月にモスクワ放送が四全協決議支持を放送したため、秋にかけて国際派の多くが所感派指導部に自己批判して党に復帰した。同年10月に所感派は第5回全国協議会(五全協)を開催して武装闘争路線を方針とする「五一年綱領」と「軍事方針」を採択。中核自衛隊・山村工作隊などの非公然組織を作り、警察襲撃事件や火炎瓶闘争などを引き起こした。これに対し、政府は規制のため1952年7月に破壊活動防止法(破防法)を制定、同時に公安調査庁を設置した。日共の武装闘争路線は世論の大きな支持を得ることはできず、1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では得票数が前回の298万票から89万票に激減し全議席を失った。北京機関も1952年7月に徳田書記長名義で「日本共産党三十周年にさいして」をコミンフォルム機関誌に発表し、極左冒険主義からの軌道修正を求める勧告を行った。
1951年9月にサンフランシスコ講和条約が締結、1952年4月に条約が発効され、日共幹部の公職追放が解除された。1953年3月にスターリンが死去、7月に朝鮮戦争が休戦した。10月に徳田書記長が死去した。『伊藤律回想録』によると、北京では徳田・伊藤と、野坂・西沢が対立し、徳田の死去後、後盾を失った伊藤は監禁状態に置かれた(1980年に帰国)。国内では1953年春から翌年にかけて志田指導部による「総点検」と称する粛清が行われ、伊藤派や神山茂夫派など千人以上が査問・処罰された。このような状況の変化の下、分裂と武装闘争路線で壊滅状態となった党の再建を目指す機運が生まれ、1954年夏に所感派の野坂・西沢・紺野・宮本太郎・河田賢治、国際派の袴田がモスクワで「六全協決議原案」を作成した。1955年7月に第6回全国協議会(六全協)を開催し、50年以来の分裂から正式に党の統一を回復、五一年綱領に基づく武装闘争路線を「極左冒険主義」として自己批判した。この会議で徳田書記長の死が公表され、トップの第一書記には旧所感派の野坂参三が就任した。1958年7月に第7回党大会を開催し、五一年綱領を正式に廃止、野坂参三が議長、宮本顕治が書記長に就任した。
背景[編集]
コミンフォルム批判は朝鮮戦争を前にしてスターリンが日共に米軍基地の後方攪乱を要請したものと考えられている。在野の社会運動研究家の宮地健一は、日共の武装闘争は朝鮮戦争への参戦行為であったと指摘している[1]。日共東京都委員会軍事委員長だった大窪敏三は、「軍事方針のほんとうの意味」は「権力の弾圧に対する抵抗自衛」と「朝鮮戦争に出動する米軍の後方攪乱」の2つだと指摘している[2]。
50年分裂下の主な事件[編集]
- 練馬事件(1951年12月)
- 白鳥事件(1952年1月)
- 田口村事件(1952年2月)
- 青梅事件(1952年2月)
- ポポロ事件(1952年2月)
- 蒲田事件(1952年2月)
- 小河内山村工作隊事件(1952年3月)
- 辰野事件(1952年4月)
- 血のメーデー事件(1952年5月)
- 新宿流血事件(1952年5月)
- 菅生事件(1952年6月)
- 吹田事件(1952年6月)
- 枚方事件(1952年6月)
- 新宿駅前事件(1952年6月)
- 大須事件(1952年7月)
- 曙事件(1952年7月)
- 横川元代議士襲撃事件(1952年8月)
脚注[編集]
- ↑ 日本共産党の武装闘争1 宮地健一のホームページ
- ↑ 大窪敏三『まっ直ぐ』南風社、1999年、213頁
関連文献[編集]
田中真人「日本共産党「50年分裂」はいかに語られたか」(『キリスト教社会問題研究』第55号、2006年12月)に紹介されているものを除く。
- 井上光晴『書かれざる一章』近代生活社、1956年/角川文庫、1971年/集英社文庫、1978年
- 上田耕一郎『戦後革命論争史』上・下、大月書店、1956年・1957年
- 小山弘健『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』三月書房、1958年/津田道夫編・解説、こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年
- 日本出版センター編『日本共産党史――私の証言』日本出版センター、1970年
- 安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』正・続、現代の理論社、1976年・1980年/合本、文春文庫、1995年
- 寺尾五郎、降旗節雄『対論・革命運動史の深層』谷沢書房、1991年
- ジェームス・小田『スパイ野坂参三追跡』彩流社、1995年
- 増山太助『戦後期左翼人士群像』柘植書房新社、2000年
- 来栖宗孝「日本共産党の「五〇年問題」と党内抗争」、いいだもも、生田あい、栗木安延、来栖宗孝、小西誠著『検証 内ゲバ――日本社会運動史の負の教訓』社会批評社、2001年
- 兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』産経新聞出版、発売:扶桑社、2005年/新潮文庫、2008年
- 不破哲三『日本共産党史を語る』上・下、新日本出版社、2006年・2007年
- 下斗米伸夫『日本冷戦史――帝国の崩壊から55年体制へ』岩波書店、2011年