山田六左衛門
山田 六左衛門(やまだ ろくざえもん、1901年(明治34年)2月8日 - 1978年(昭和53年)3月24日)は、労働運動家。構造改革派の指導者[1]。元日本共産党中央委員[2]、統一社会主義同盟代表委員[3]。種子島生まれ。
来歴[編集]
鹿児島県熊毛郡南種子村字平山(現・南種子町)生まれ。鹿児島県立一中在学時代にロシア革命の影響を受ける。早稲田高等学院政経科に進学したが、農民文学に傾倒して3年で中退、プロレタリア文学にも関心を寄せた[4]。
1926年7月大阪に移り[4]、日本労働組合評議会(評議会)に加盟[5]。1927年5月寺田紡績に就職するが、10月に解雇され[4]、評議会翼下の紡績労組常任オルグとなった[2]。同年の労働農民党第2回大会に大阪代表として参加。1928年日本共産党に入党[5]、3・15事件で検挙され、懲役2年執行猶予5年の判決を受けた。1930年5月の岸紡争議で検挙、争議を指導する中で日本労働組合全国協議会(全協)の結成に関わった。1931年全協大阪支部協議会責任者となり、9月の大阪府議会議員選挙では共産党中央の意向に背いて小岩井浄を推薦。1932年4月全協中央常任委員となるが、9月の第1回中央委員会で天皇制打倒の行動綱領採択に反対して辞任[4]。同年に全協中央委員会第2グループ副議長を務めて検挙された[5]。1933年1月にも検挙されて懲役6年の判決を受け、1940年に出獄した[4]。
戦後は1946年、日本共産党に再入党。党大阪地方委員となり、高田鉱造らとともに食糧危機突破連盟を結成して隠匿物資摘発闘争を指導した[4]。1949年に党和歌山県委員長、1950年の分裂時に関西地方の国際派の中心として全国統一委員会関西地方委員会議長となり、主流派から除名された[5]。1951年の大阪府知事選に共産党から立候補[4]。20,714票を獲得、自由党の赤間文三、社会党の杉山元治郎に次ぐ最下位で落選した[6]。なお党主流派は杉山を支持した。
1955年7月の六全協後、関西地方委員会に復帰し、1958年7月の第7回党大会で中央委員に選出[5]。1956年の参院選大阪地方区、57年と59年の同補欠選挙に立候補したが落選[4]。党章論争では構造改革派の立場をとり、1961年7月第8回党大会を前に離党した中央統制監査委員会議長・春日庄次郎に続いて、中央委員・西川彦義、内藤知周、亀山幸三、中央委員候補・内野壮児、原全五とともに脱党[7]、除名された[4]。1961年10月春日、西川、内藤らとともに社会主義革新運動準備会(社革)を結成[8]、その副議長となった[5]。1962年5月春日らとともに社革を離脱して統一社会主義同盟(統社同)を結成[5][8]。原とともに統社同大阪を代表した[9]。学園闘争、反戦闘争の高揚の中で構造改革・平和共存路線は批判されるようになり、1969年9月の統社同第8回大会で議長の山田、書記長の安東仁兵衛は退陣した[8]。1968年日ソ交流親善大阪協会常任理事[5]。
脚注[編集]
- ↑ 上田孝也「山田六左衛門」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、186頁
- ↑ a b 20世紀日本人名事典 コトバンク
- ↑ 社会問題研究会編『全学連各派――学生運動事典』双葉社、1969年、234頁
- ↑ a b c d e f g h i 久保在久「山田六左衛門」近代日本社会運動史人物大事典編集委員会編『近代日本社会運動史人物大事典 4』日外アソシエーツ、1997年、748-749頁
- ↑ a b c d e f g h 朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、1461頁
- ↑ 「府民の選択、時代と共に 44年間の知事選史 大阪」『朝日新聞』1991年3月6日付朝刊35面(大阪)
- ↑ 社会問題研究会編『増補改訂'70年版 全学連各派――学生運動事典』双葉社、1969年、143-145頁
- ↑ a b c 板橋真澄「統一社会主義同盟」『戦後革命運動事典』189頁
- ↑ 樋口篤三『革命家・労働運動家列伝――樋口篤三遺稿集 第1巻』同時代社、2011年、60頁
関連文献[編集]
- 「山田六左衛門」デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- 井元正流『種子島人列伝』南方新社、2003年
- 春日庄次郎編『社会主義への日本の道――日本共産党綱領草案への意見書』新しい時代社、1961年
- 山六会編集『濁流を悠々と――山田六左衛門とその時代』山六会、1981年