宮本百合子

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宮本百合子(みやもと ゆりこ、1899年2月13日-1951年1月21日)は、プロレタリア文学の作家、宮本顕治の妻。

人物[編集]

著名な建築家・中条精一郎の娘として東京に生まれる。旧本名は中条ユリ。祖母が福島県郡山におり、精一郎の父・中条政恒は郡山で開拓をした人なので幼時よく郡山へ行き、祖父の盟友の息子だった久米正雄と親しんだ。母は明治の知識人・西村茂樹の娘。

早くから文才を現し、16歳で書いた小説「貧しき人々の群れ」を、坪内逍遙の紹介で『中央公論』に掲載し、天才少女としてセンセーションを巻き起こす。無名詩人だった室生犀星は、父が建築家として有名だから載ったんだと考えて自らを慰めた。その後父とともにアメリカに留学し、言語学者の荒木茂と知り合い、結婚する。

帰国後、荒木との生活は長く続かず離婚。その後、のちロシヤ文学の翻訳家となる湯浅芳子と知り合い、レズビアン的な同棲生活を始めるが、母はこういう生活に不満であった。この時のことをのちに描いたのが代表作『伸子』で、母と娘の相剋を描いた最初の日本近代小説である。その続きが『二つの庭』となる。社会主義に共鳴し、昭和に入ってから湯浅とともにソ連を旅行する。この時のことを描いたのが長編『道標』である。帰国後、湯浅とも別れ、共産党の活動家で文藝評論家の宮本顕治(9歳年下)と知り合い結婚。

以後は共産党員としての地下活動を行い、顕治は1933年から投獄され、網走刑務所に送られ、そこで百合子と交わした往復書簡がのち『十二年の手紙』となる。百合子もたびたび検挙され、この時獄中で罹った日射病が、のちの死因となったという。敗戦によって顕治は帰ってくる。この当時のことを描いたのが『播州平野』『風知草』で、敗戦によって百合子は評論「歌声よ、起これ!」を書いて共産党を激励する。戦後6年で死去するが、賢治は百合子の秘書だった女性と再婚した。