原田長司
原田 長司(はらだ ちょうじ、1908年 - 1993年[1])は、日本の社会運動家。元日本共産党中国地方委員会議長。
経歴[編集]
戦前国鉄に勤務[2]。山代巴によると「戦前の国鉄ストの勇敢な闘士だった」という[3]。戦後日本共産党山口県委員長[2]、1950年の党分裂の時点で中央委員候補、中国地方委員会議長[4]。中国地方委員会は50年の党分裂で大多数が国際派(反主流派)の立場をとり、8月16日に臨時中央指導部・統制委員会(主流派)は原田以下7人の常任委員の除名、地方委員会そのものの解散を決議した[5]。9月1日に国際派が結成した日本共産党統一委員会の全国委員に選出[6]、その解散後は宮本顕治らと共に国際派が再結集した日本共産党全国統一会議の中心となった[7]。のち復党したが、1966年に党中央が自主独立路線を打ち出し中国共産党と対立すると、中国派として除名された。
田代則春によると、1966年9月に親中派の隅岡隆春、福田正義らと「日本共産党山口県委員会」(山口左派)を結成し、1967年8月に全国組織として「日本共産党(左派)全国協議会」を組織した[8]。社会問題研究会編『全学連各派』によると、山口県委員会の福田正義ら5人が1966年8月に「日本共産党山口県委員会革命的左派」を名乗って党中央に反旗を翻すと、日共は5人を除名、続いて福田一派を擁護した原田を赤旗編集委員から解任、除名した。しかし、1968年7月に山口左派内で福田派と原田派が対立し、原田らは処分を受けた[9]。その後、田中廉造らと「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」として活動。1980年1月、「日本共産党(左派)」から分裂した「日本共産党(左派)中央委員会臨時指導部」(関東派・隅岡隆春派)と統合し「日本共産党(マルクス・レーニン主義者)」を結成、議長に就任した。1981年9月、板井庄作、林毅らの日本労働者党(1973年結成)と統合し新たな「日本労働者党」(林毅書記長)を結成した[10][11]。
「日本労働者党」は原田死後の1998年2月に「建党同盟」と統合し「労働者社会主義同盟」(山川暁夫議長)を結成した[12]。
脚注[編集]
- ↑ 小山弘健著、津田道夫編・解説『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年、333頁
- ↑ a b 中村哲・伊藤淳さんを偲ぶ会(渡部富哉報告) ちきゅう座(2020年1月26日)
- ↑ 山代巴『原爆に生きて』径書房、1991年、41頁
- ↑ 法政大学大原社研 北京人民日報の提言と党内分派問題〔日本労働年鑑 第24集 735〕
- ↑ 小山弘健著、津田道夫編・解説『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年、108-109頁
- ↑ 小山弘健著、津田道夫編・解説『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年、116頁
- ↑ 小山弘健著、津田道夫編・解説『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年、125頁
- ↑ 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、175頁
- ↑ 社会問題研究会編『増補改訂'70年版 全学連各派――学生運動事典』双葉社、1969年、182頁
- ↑ 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、169、172頁
- ↑ 追悼 隅岡隆春同志労働者社会主義者同盟機関紙『人民新報』第1108号(統合201号)(2003年9月25日)
- ↑ 労社同第1回全国大会について 労働者社会主義同盟