一柳茂次
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一柳 茂次(ひとつやなぎ しげじ、1901年 - 2001年10月24日)は、日本の社会運動家。
経歴[編集]
東京府生まれ[1]。1929年旧制浦和高等学校入学と同時に左翼運動に入り、左翼グループを結成、反帝同盟に参加[2]。1931年5月日本共産党・日本共産青年同盟の指揮下に入り[1]、9月の満州事変直後に入党、技術部(テク)に所属。浦和高校時代は党資金網の責任者として活動。1932年技術部と資金部が統合して家屋資金局が創設されると、技術部から分離した軍事部に移り[2]、関東軍事委員会に所属。横須賀海軍鎮守府委員会で阪口喜一郎らと活動したが[3]、10月30日の一斉検挙(熱海事件)で検挙。1934年4月30日懲役2年執行猶予5年の判決を受け、市ヶ谷刑務所を出所。満州・大連に行くが1年で帰国。東北帝国大学法文学部経済科に入学、内藤知周や大島清と知り合う。1940年大学卒業後、帝国農会に勤務。その後、徴兵され[2]、1946年5月復員と同時に共産党に再入党。1947年中央委員会農民部、続いて「アカハタ」編集部に勤務[1]。「五〇年問題」では国際派に所属[3]。1952年11月山口武秀、竹村奈良一らと農民運動研究会を結成[1]。
1961年10月社会主義革新運動準備会(社革新)の結成に参加[1]。1967年2月共産主義労働者党(共労党)の結成に参加、中央常任委員[4]。1969年7月労働者党全国連絡会議の結成に参加。9月労働運動研究所(労研)の設立に参加[1]。マルクス主義農業理論家の第一人者といわれていたが、80年代まで一貫して社革新、共労党、労働者党、労研の財政部長を務めた[5]。2001年10月24日肺炎のため死去、89歳[1]。
脚注[編集]
関連文献[編集]
- 一柳茂次追悼集刊行会編『一柳茂次 著作・回想』社会評論社、2002年