尊性法親王

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尊性法親王(そんしょうほっしんのう、建久5年(1194年) - 延応元年9月3日1239年10月1日))は、鎌倉時代皇族。父は後高倉院の守貞親王、母は持明院陳子(北白河院、持明院基家)。同母弟に後堀河天皇がいる。同母妹に安嘉門院・邦子内親王四条天皇の伯父に当たる。綾小路宮と称された[1]

生涯[編集]

後高倉院の第1皇子であるが、父は皇位継承の埒外にあったので親王は承元3年(1209年3月出家する[1]。2ヶ月後の5月に大僧都に任命され、承久3年(1221年10月に法親王に列せられ、貞応2年(1223年)3月に天台座主に任命された[1]嘉禄元年(1225年12月四天王寺別当に任命されるが、2年後に天台座主に再任されている[1]寛喜3年(1231年)に四天王寺の僧徒と紛争を起こすが、鎌倉幕府の支援を得て鎮圧している[1]。延応元年(1239年)9月3日に死去[1]享年46。

脚注[編集]

  1. a b c d e f 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P334

参考文献[編集]