太史慈

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

太史 慈(たいし じ、166年 - 206年)は、中国後漢末期の武将子義(しぎ)[1][2]。子は太史享。子孫にの学者の太史叔明がいる。

生涯[編集]

青州での活動[編集]

青州東莱郡黄県の出身[1][2]。身の丈は7尺7寸(約177センチ)で立派な髭を持ち、弓の腕前に秀でていて学問にも通じていたという。はじめ郡役所の奏曹史(上奏を担当する官吏)となるも、186年に青州の役所と郡役所の間で確執が起こって先に朝廷に上奏したほうが有利になる事態が起こった[2]。郡は州に後れを取り、太史慈が使者になって昼夜兼行で洛陽にまでたどり着くが、その時にちょうど州の使者が朝廷に取り次がれるところだったので、太史慈は「表書きに誤りはないか確かめたほうがいい」と言って上章を破ってしまった[2]。州の使者は青ざめたが、太史慈は「見せた君にも責任があるし、破った自分にも責任があるから一緒に逃げよう」と誘い、州の使者と共に逃亡する[2]。ところが太史慈は途中で引き返して朝廷に取次を願い、朝廷は郡役人の太史慈を先に取り次いだのであった[2]。これにより太史慈の名は一躍知られるようになったが、州役所からは当然のように疎まれたので遼東郡への逃亡を余儀なくされた[2]

青州の北海国相の孔融は太史慈の母に目をかけており、黄巾賊の残党である管亥が孔融を攻撃した際に母が孔融の恩を返すために太史慈に孔融を助けるように述べると、太史慈はこれを受け入れて夜にまぎれて管亥軍の包囲を突破して孔融の下に駆けつけ、さらに平原国相の劉備に救援を求める使者に立とうとしたが、孔融の籠もる城が管亥によって厳重に包囲されたので城から出て弓の練習をして再び城に戻るという不可解な行動を続けて敵を油断させ、3日目に遂に包囲をかいくぐって劉備に救援を求めたという[1][2]

劉繇の時代[編集]

その後、太史慈は同郷の揚州刺史であった劉繇に目通りするが、この時に孫策の江東侵攻が行なわれたので劉繇の家臣の中には太史慈を起用して孫策軍と戦うことを進言する者もいたが、劉繇は許劭の評判を気にして重用しようとせず、敵情視察の役目しか与えなかったという[2]。その敵情視察の際、太史慈は従者を1人連れているだけだったが、13騎を連れて同じく敵情視察をしていた孫策と偶然にも遭遇したので太史慈は勇躍して孫策に一騎討ちを挑んだ[2]。両者の腕前は互角であり、太史慈は武器を奪われたが、孫策の兜を代わりに奪ったという[2]

劉繇が孫策に敗れると、太史慈は異民族をかき集めて孫策に抵抗するが、敗れて捕虜となった[2]。この際に孫策は自ら太史慈を縛っていた縄を切り、自らの家臣になるように願い出たので、太史慈は散り散りになった劉繇の兵をまとめてくると進言し、孫策はそれを許可した[2]。孫策の家臣らはそれを知ると太史慈は絶対に逃げると主張したが、孫策は太史慈が任務を果たして戻ってくることを信じ、太史慈は孫策との約束の日までに残党をかき集めて戻ってきたのであった[2]

孫策・孫権の時代[編集]

孫策の部下になると太史慈は建昌都尉に任命され、荊州刺史である劉表の甥・劉磐の侵攻に備えた[2]。太史慈の評判を聞いていた曹操は太史慈に「当帰」という薬草を入れた上で手紙を送ったが、これは太史慈に曹操に帰順せよという暗示であったが[2]、太史慈はこれを拒絶した。

太史慈は孫策、200年に孫策が死去した後には孫権に仕えて信任を受けて南方守備を任されるが、206年に死去した[1][2]。享年41[2]。臨終の際に「丈夫という者がこの世に生まれたからには、七尺の剣を帯びて天子の階を登るべきを、その志が実現できぬ内に死ぬ事になろうとは」と述べたという[2]。なお、この臨終の言葉にある「七尺の剣を帯びて天子の階を登るべき」の主語が主君である孫権を自分の力で天子にしたかったという意味なのか、それとも自分が天子になりたかったのでその野心があったのかは不明である。

三国志演義[編集]

三国志演義』では第11回の孔融の危機で駆け付け、劉備と協力して管亥を破る所で初登場する。孫策との一騎討ち、劉繇に冷遇されながらも奮戦し、さらに劉繇が敗走した後は孫策に残党を集めて帰順するシーンなどは全て史実通りである。演義では206年の時点では死去せず赤壁の戦いにも参加しており、209年に孫権が合肥を攻めた際に内通者を通じて5000の兵力をもって合肥城内に攻め込もうとしたが、城を守る守将の張遼に的確に対処されて太史慈は城内に誘い込まれて矢を受けて戦死することになる。史実より3年も長生きしているのに享年は41とされているため、演義での生年は169年となってしまう[2]

脚注[編集]

  1. a b c d 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、241頁
  2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 小出『三国志武将事典』P121

参考文献[編集]