孫賁
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孫 賁(そん ふん、? - 210年?[1])は、中国の後漢末期の武将・政治家。孫羌の子。孫輔の兄。子に孫鄰・孫安・孫煕・孫績。字は伯陽(はくよう)[1]。
生涯[編集]
若い頃に父の孫羌や母親が亡くなったため、弟の孫輔を養育して評判となる[1]。郡の督郵守長となり叔父の孫堅の挙兵に従うが、192年に孫堅が戦死したためその棺を故郷に送り届けた[1]。
その後は袁術の家臣となり豫州刺史に任命されたが、袁術が皇帝を僭称すると離反して孫策に従った[1]。197年に劉繇が病死すると予章郡を平定して太守となった[1]。208年に征虜将軍に任命され、太守も引き続き兼任した[1]。210年に死去したとされる。
『三国志演義』には登場しない。