厳白虎
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厳 白虎(げん はくこ、生没年不詳)は、中国の後漢末期の群雄。姓は厳、名は虎であり、白虎は別号であるが、『呉書』では白虎と記録されているため誤りではない。『三国志演義』などでは別号で名が通っている。弟に厳輿。
生涯[編集]
揚州呉郡烏程県の出身[1]。呉郡の豪族で1万余の兵を擁していたが、孫策の江東平定を受けると塁を高くして固守する一方で弟の厳輿を使者として派遣する[1]。しかし厳輿はその場で殺され、勇猛な弟の死で意気消沈した白虎は許昭の下に身を寄せた[1]。一時は陳瑀と連携して孫策と戦ったが、孫策の派遣した呂範の前に陳瑀は敗れた[2]。
以後の消息は不明であるが、200年の時に広陵郡太守の陳登が白虎の残党を扇動して孫策の後方撹乱を企てたと記録にあるため、この頃には死去していたのではないかと推測されている[1]。
『三国志演義』では討伐される順番が逆になっている(史実では王朗が敗れてから白虎である)。また東呉の徳王と称して好き勝手な政治をしていたとされ、孫策に敗れて王朗を頼ったがここでも敗れ、最後は董襲に殺されて首級は孫策の下に届けられた。