北条時長 (後北条氏)
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北条 時長(ほうじょう ときなが、? - 永禄3年7月20日(1560年8月11日)) は、戦国時代の武将。後北条氏の一族。仮名は三郎。
生涯[編集]
父は北条幻庵で嫡子。弘治年間に家督を父から譲られ、小机領の支配権を任されている。永禄2年(1559年)の『役帳』では小机衆の筆頭に位置づけられ、武蔵国小机本郷(現在の横浜市)に176貫文余りを、合計では1620貫文余を領する知行高を持っており、これは役帳の中でも第4位の知行である。また、この記載から小机城主の地位にあったと見られており、小机衆26名を家臣、同心にしていたと見られており、その知行高は後北条氏御一家衆の中でも幻庵に次ぐものであることから、有力御一家衆の一人と見なされていたと見て取れる。史料上では弘治2年(1556年)から活動が確認できるので、恐らくこの年に家督相続した可能性がある[1]。
永禄元年(1558年)4月、古河公方の足利義氏の北条氏康私邸への御成では、北条氏尭、伊勢八郎に続いて3番目の給仕を努めている事からも、御一家衆の中でもかなり重要な位置にあったことがうかがえる[1][2]。
ところが、永禄3年(1560年)7月20日に死去している。法名は宝泉院殿大年宗用大禅定門。墓所は小田原風祭の宝泉寺[2]。
時長には実子が無かったので、家督は実弟の氏信が継承することになった。ただし、小机城主の地位と小机領は北条氏尭が継承している[2]。