智光院 (北条氏尭の娘)
智光院(ちこういん、? - 慶長16年6月29日(1611年8月7日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。後北条氏の一族。
略歴[編集]
父に関しては北条氏綱の子・北条氏尭と言われている。この場合は北条氏康の姪に当たることになる。ただし、後北条家の家臣・田中泰行の娘で、氏尭の養女になったとする説もある(『南紀徳川史』)。もし泰行の娘ならば、後北条家の外交官として著名な板部岡江雪斎は兄に当たることになる[1]。娘お万は再婚相手蔭山氏広との間に生まれた娘あるいは冷川村百姓夫妻の娘などという説もある(『南紀徳川史』)。
永禄9年(1566年)に正木時忠が北条氏政に対して人質に5男の権五郎(後の正木頼忠)を小田原に送ってきた際、智光院との婚姻が成立したものと見られている。頼忠との間には長男の直連(菊松・十郎)、天正元年(1573年)に次男の為春が生まれている。しかし天正4年(1576年)に時忠が死去すると、頼忠は単身で上総に帰国して正木氏の家督を継承したため、残された智光院とは事実上の離婚状態になり、残された子供たちも智光院と共に氏政の庇護下に置かれたという[2]。
天正8年(1580年)閏3月20日に頼忠が長男の直連の身柄返還を妻の智光院に懇望しており、智光院はそれに応じて直連を頼忠の下に返還している。なお、諱の「直」は北条氏直からの偏諱と見られることから、氏直の下で元服してから返還されたと見られている[2]。
その後は次男の為春、娘のお万の養育に努め、天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条家が滅亡すると、かつての後北条家の旧臣で新たに関東に入部した徳川家康の家臣となった蔭山氏広と再婚した。慶長16年(1611年)6月29日に死去。法名は智光院妙経日種[2]。
息子の為春と娘のお万は共に家康に仕え、特にお万は家康の側室となって紀伊徳川家の祖である徳川頼宣、水戸徳川家の祖となった徳川頼房を生んだことで知られている[2]。