松田康長
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松田 康長(まつだ やすなが、天文6年(1537年) - 天正18年3月29日(1590年5月3日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。父は松田康定。弟は康郷、大石照基。妹に大石定仲室。子は直長、娘(宮城泰業室のち山角盛繁室)。
生涯[編集]
父は後北条家の家臣・松田康定で長男。仮名は助六郎。官途は右兵衛大夫[1]。
弟に康郷がいるが、康郷が父親の官途である筑前守を踏襲しているため、康長は康定の庶長子だったと考えられている。永禄2年(1559年)の役帳に馬廻衆としての記録があり、知行も約700貫文を領している。嫡子である場合は当主親衛隊である馬廻衆に属することは考えにくいため、庶子だった可能性が濃厚である[1]。
康長は北条氏康・氏政・氏直の後北条家3代に仕えた。天正15年(1587年)11月、豊臣秀吉との対戦に備えて、氏直の命令で伊豆山中城の構築に当たっており、以後は山中城に在城して西方防衛の任務に当たった[1]。
天正18年(1590年)3月から秀吉の小田原征伐が開始されると、山中城は豊臣軍の標的とされて豊臣秀次を総大将に、一柳直末や堀尾吉晴、中村一氏らを大将にした軍勢に包囲攻撃されることになった。康長は援軍として山中城に入っていた北条氏勝と共に懸命に抗戦し、一柳直末を戦死させるなど一時は善戦したが所詮は多勢に無勢であり、即日落城は避けられなくなったので氏勝を玉縄城に落ち延びさせた後、自らは討死覚悟で最後まで奮戦して玉砕した。54歳没。
その忠烈な戦死に氏直は4月17日に遺児の直長に家督を継承することを許可している[1]。また後北条家滅亡後、直長は徳川氏に旗本として召し出された。