伊達政宗
伊達政宗 だて まさむね | |||||||||||||||||||
伊達政宗の肖像。
|
伊達政宗(だてまさむね、1567年9月5日-1636年6月27日)は、出羽国と陸奥国の戦国大名、仙台藩初代藩主である。5歳の時に片目を失明、片方の目だけの英雄から独眼竜(どくがんりゅう)とも呼ばれる[1]。
生涯[編集]
8世紀の貴族、藤原房前の五男、魚名の子孫とされている。なお摂関家は、房前の三男、真楯の子孫である。
少年・若年期[編集]
1567年9月、出羽国米沢城で出生。幼名は梵天丸。後の二代将軍徳川秀忠より12歳年上。幼少期は主に米沢城で過ごす。家族が戦国大名であったが (伊達輝宗)、戦国時代前半や政宗の最盛期に比べると、米沢・仙台・福島あたりのみを支配する弱い武将だった。
1574年、天然痘で右目を失明した。これにより義姫は弟の伊達小次郎しか育てなくなり、当主の候補に成り上がった。これを抑えようとした教育係の片倉景綱(小十郎)は、政宗の眼球を刀で抉り取った。これを機に父の輝宗も動き出し、1575年には虎哉宗乙を僧侶に迎え、政宗を出家させた。政宗は出家した年、政宗が右目を気にしてメソメソしていたのを見た宗乙は政宗に「独眼竜」の事を教えた。これを機に政宗は「独眼竜政宗」としての道を歩むことになる。
1577年元服。元服後の名は九代政宗にあやかる。
1579年、正室として愛姫と政略結婚する。1581年、摺上原の戦いで初陣を果たした (伊達軍の勝利)。
家督相続後[編集]
1584年に父の輝宗が隠居したことにより、17代当主 伊達政宗が誕生した。
1585年、早速家臣の大内定綱の謀反の疑いが発覚する。これがきっかけで大内氏の領地である桧原に侵攻した。畠山義継は定綱に味方したが、結果的に小手森城での籠城戦となった(人取橋の戦い)。この戦いに政宗は勝利、定綱は戦死、義継は和睦交渉を用いるものの改易となった[2]。
しかしこれで終わりではなかった。同年、義継は輝宗を拉致し人質に取った。政宗はすぐに義継の居場所へと向かった。そして鉄砲を構え、輝宗もろとも義継を撃った[3]。
1587年、豊臣秀吉が惣無事令を発布 (無視)、1588年に大崎氏の内紛に参戦した。そして同年、蘆名氏を滅ぼした。1589年、二階堂氏を滅ぼし、領土は奥羽にまたがり114万石の大領となった。
しかし1590年の小田原征伐の際、拠点の石垣山城に来る気配が無いと感じた豊臣秀吉は一刻も早く来るよう命じた。政宗は秀吉の元につくという一択のみだった。低迷する伊達家の一員として、義姫と最上義光が毒殺計画を謀略した(この時は奇跡的に失敗した)(伊達政宗毒殺計画)流石にまずいと思ったのか、政宗は死装束で城へと向かった。政宗は許され、征伐に参加する事ができた(会津の領地の没収で済んだ)。秀吉は勝利し、政宗は秀吉に仕えるようになった。
政宗は天下の道を諦めてはいなかった。同年に他の大名の領地で一揆を起こさせる書を送り、その一揆を征伐し領地を拡大した。が、秀吉にこの事が漏れたため伏見城へと呼び出された。政宗は黄金の十字架を背負い死装束で京都へと挑んだ。結果的に政宗の説得により許され、窮地は逃れた(この時も領地を没収された)が、父祖以来の羽州米沢(72万石)から、奥州岩出沢(58万石、のち岩出山と改称)に追いやられた。同年、秀吉が文禄の役に参加するよう命じられた。政宗は派手な衣装や道具を用いて[4]朝鮮へと出兵した。1595年、豊臣秀次の切腹により伊達家は伊予国へ移封させられかけたが、家臣団が奔走し何とか回避した[5]。
江戸時代[編集]
1600年、関ヶ原の戦いが勃発した。政宗は徳川方につき、前哨戦である上杉家との戦いで白石城を陥落させ、大きな衝撃を与えた。
徳川家康は、この時点では上杉領となっていた伊達家旧領6郡49万石の領土の自力回復を許す旨の書状[6]を伊達家に約束している。
1603年、白石を加増で60万石の仙台藩が作られ(のち飛び地を得て62万石)、居城を従前の岩出山から移してその藩主となった。以後仙台の基礎を造る者としてあり続けた。そしてこの頃、支倉常長をトップとして慶長遣欧使節を教皇庁に派遣。また、長女の五郎八姫を徳川家康の六男松平忠輝に嫁がせたが、禁教令で欧州との修好を諦め、忠輝の改易で五郎八姫は離縁せざる得なかった。一方で、嫡男忠宗には、池田輝政の娘で家康の孫の振姫を娶せた。
1611年、幼少期の僧である宗乙が病死。1615年、長年に渡り政宗を支えた片倉景綱が病死した。
1623年、徳川家光が将軍に就任すると政宗を「親父殿」と呼ぶ様になり、自分の父であるように戦国期の出来事を喜んで話を聞いた(仙台城にわざわざ行く程だったという。)
1636年、政宗は癌により死去した。享年69。