伊達綱宗
ナビゲーションに移動
検索に移動
伊達 綱宗(だて つなむね)は、江戸時代前期から中期の大名。仙台藩3代藩主。伊達氏19代当主。官位は従四位下・左近衛権少将、陸奥守、美作守。
生涯[編集]
2代藩主・伊達忠宗の六男として誕生する。母は側室の貝姫[1]。 六男であったが、正保2年(1645年)の兄・光宗の夭折により嫡男となり、忠宗から自身の後継者と3代将軍・徳川家光に披露された[1]。承応3年(1654年)に元服し、4代将軍・徳川家綱から一字を拝領して綱宗と名を改めるとともに従四位下・美作守となる[1]。
万治元年(1658年)7月に父が亡くなり、9月に幕府から家督相続の許しを受けたことで仙台藩3代藩主となる[1]。万治3年(1660年)7月18日、21歳で隠居させられた(綱宗隠居事件)[2]。家督は綱宗の2歳の長男・亀千代(後の伊達綱村)が継ぐ[2]。
綱宗自身はその後、品川の大井屋敷に隠居し50年に及ぶ芸術三昧の生活を送った。画は狩野探幽に学び、風流画や蒔絵[3]を多く残す。また、吉良義央を通じて山鹿素行とも交流があった。綱宗と後西天皇はいとこ関係になる事から「吉良殿は素行子(子は老子・荘子のように「先生・師匠」の意)と朝廷や主上(しゅじょう。天皇陛下を指す)に対する考えが同じ」[4]と吉良の勤皇高家ぶりを褒めている。
正徳元年(1711年)、江戸で没した。享年72。法名は見性院殿雄山全威大居士。綱宗の遺体は仙台に運ばれ、経ヶ峯に葬られた。