三笠宮崇仁親王
三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、大正4年(1915年)12月2日 - 平成28年(2016年)10月27日)は、日本の皇族・歴史学者(専攻は古代オリエント史)、大日本帝国陸軍の軍人(最終階級は陸軍少佐)。大正天皇と貞明皇后の第4皇子。昭和天皇の末弟。今上天皇の叔父にあたる。御称号は澄宮(すみのみや)。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。勲等は大勲位。称号は東京芸術大学名誉客員教授。お印は若杉(わかすぎ)。「三笠宮」の宮号は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市の三笠山にちなんで命名された。明治時代以降の皇族で初めて100歳を越えた。
生涯[編集]
第1次世界大戦中の大正4年(1915年)12月2日に生まれる。学習院大学中等科や陸軍士官学校を経て大本営陸軍参謀として勤務する。しかし太平洋戦争中の陸軍の戦争指導には一貫して批判的だったという。
戦後は歴史学者の道を歩み、東京大学文学部研究生として古代オリエント史を専攻。昭和29年(1954年)に日本オリエント学会を創設し、自ら会長に就任する。昭和30年(1955年)に東京女子大学や青山学院大学の講師として20年余りにわたって教壇に立った。テレビやラジオの市民講座にも出演し、率直な発言と気さくな発言で親しまれた。
私生活においては昭和16年(1941年)に親王妃百合子(高木百合子)と結婚し、近衛甯子(甯子内親王)・寬仁親王・桂宮宜仁親王・千容子(容子内親王)・高円宮憲仁親王ら3男2女に恵まれるが、3男の高円宮憲仁親王が平成14年(2002年)11月に47歳で急死したのをはじめ、長男の寛仁親王が平成24年(2012年)6月に66歳で、次男の桂宮宜仁親王が平成26年(2014年)6月に亡くなるなどの不幸に見舞われた。男子の相次ぐ死に自身の身体も大きく影響し、平成24年(2012年)6月14日の寛仁親王の葬儀の後、体調不良を訴えて座り込み、6月15日から入院している。もともと、心臓の弁が完全に閉じずに血液が逆流する僧帽弁閉鎖不全の持病があり、7月になると心機能が低下したので7月11日に弁の機能を回復する手術を受けた。
平成28年(2016年)5月16日、急性肺炎のため入院する。この時は症状が治まり、ベッド上において手足を動かすリハビリをしていた。10月22日には結婚75周年のお祝いをしたが、高齢に伴う心機能の低下がみられたとされ、10月27日午前7時40分頃から脈拍が徐々に遅くなり、午前8時34分に心不全のため入院先の東京都中央区聖路加国際病院で亡くなった。享年102(満100歳)。
三笠宮崇仁親王が亡くなられたことにより、天皇陛下のフィリピン大統領との会見(10月27日午後予定)や11月1日の秋の園遊会は中止となった。
人物像[編集]
気さくな人柄で「大殿下」と呼ばれて親しまれた、ダンスが得意でスポーツに通じる一方で、古代オリエントの研究者としても名高かった。一方で様々な発言も残している。
- 自ら軍人として昭和18年(1943年)1月から中国の南京総司令部に勤務したが、そこで青年将校から兵隊の度胸試しに捕虜を銃剣で刺殺した話を聞かされ、さらに毒ガスの生体実験映画を見せられたことを著書で書かれており、「『聖戦』の影に実はこんなことがあった」として当時の日本軍の残虐行為を厳しく非難された。戦争の悲惨さを訴え、日本国憲法で明文化された第9条の支持を表明され、「国民の一人一人が徹底した平和主義者にならねばならぬが、とにかく之を憲法に明記することは確(か)にその第一歩である」と訴えている(『改造』1949年8月号)。南京大虐殺については「新聞を見ていると、何万人殺したとかいや殺してないという話が載っていますけれども、これは数の問題ではなくて1人であっても虐殺は虐殺なんです」とされている(雑誌『東方学』の座談会。1993年1月)。戦後約40年の著書では自らが戦争の罪悪性を十分に認識していなかったとして、「今もなお良心の呵責に堪えない」と振り返られた。
- 昭和33年(1958年)11月に「紀元節復活反対」を要求するよう史学会に提案したが無視されたため、同会を脱退して抗議の意思を示された。理由は「歴史学者として架空の年代を国の権威をもって国民に押し付けるような企てにあくまで反対する」と学者としての意見・立場を毅然と示したためである。このため翌年の2月には親王に反発した右翼団体が騒ぎを起こしたり、国体学の思想家である里見岸雄が皇籍離脱を勧告するなどの事態になった。
- 古代史に対して造詣が深く、仁徳天皇が竈から立ち上る煙で民衆の食糧事情を心配した故事を引き合いに出し、「この煙の研究もただ天皇のご仁慈だけでとどめることは許されない」「歴史研究のメスを常民の社会生活の奥深く突き刺さねばならない」と被支配者層からの視点を重視された。
- 「三笠さん」と呼ばれるのを好み、研究生時代の同期生によると「運転手付きの車があるでしょ」と聞くと「今の時勢で乗る気がしない」「宮は神輿に上げられるような感じがする」と述べられたという。
- 昭和21年(1946年)11月に「譲位の問題」「女帝の問題」などの項目を挙げた意見書を枢密院に提出しているが、その中で新皇室典範案が天皇の生前退位を認めていないことについて「天皇は全く鉄鎖につながれた内閣の奴隷」「日本国憲法第18条の「何人もいかなる奴隷的拘束も受けない」という精神に反しないか」と反発や疑義を示されている。皇位継承についても、男系のみとすることを認めながらも女帝を検討するべきだとしている。
- 皇族の生活に不自由を感じていたとされ、「国民の前にベールに包まれていた皇室の内部は少しも家族主義ではなかった」「皇后陛下は天皇陛下に臣下として仕え、そのうえ自分の子供に対して皇子であるというので敬語を使わねばならなかった。家族が愛情にとけあって一家談笑する家庭というものがない」「御殿くらい広くて不便な家はない。台所と食堂が離れているので、暖かいものを食べたことがないから皇族はみな猫舌になってしまった」と述べられている。また戦後、「日本の民主化は皇室から始めるべきだと思う」と語られたという。
- 歴史学を志した理由は、戦時中に歴史というものがいかに人格形成というものに必要かということを痛切に感じたためという。
- 皇室では子供を両親から離して側近が世話をする慣例があったが、親王夫妻は一緒に暮らして育児に専念し、子供に「意見を持つことが大切だ」と言い続けたという。
- 親王はアイススケートが得意なスポーツマンであり、冷戦の最中であるにも関わらず昭和29年(1954年)に日本で開催された世界レスリング選手権大会で総裁を務められていたとき、「スポーツに国境はない。ソ連が参加しないなら私はお断りします」と発言し、冷戦の中でソ連選手の来日を実現させた。