三木清
三木 清(みき きよし)は日本の哲学者。京都帝国大学(旧制)で西田幾多郎、田辺元、波多野精一らに学ぶ[1]。京都学派に分類される[2]。
生涯[編集]
1897年(明治30年)1月5日、兵庫県揖保郡平井村小神(後の龍野市、現・たつの市揖西町)にて、父三木清助、母しんの長男として生まれる[2][3]。家業は農業、祖父の代に米穀を商ったことがあったので、生家は村の「米屋」として知られていた。祖父の代にかなりの資産を作り、裕福な家庭の子として青・少年時代を送った。のち四人の弟、三人の妹の兄となる[3][4]。
1903年(明治36年)3月に兵庫県揖保郡平井尋常小学校(後に揖西尋常高等小学校と改称)に入学。1908年(明治41年)高等科2年のとき、担任の多田訓導に指導されて俳句を作成するとともに、芭蕉・蕪村・子規を教えられる[4][5]。
1909年(明治42年)12月高等小学校を2年で終了し、旧制龍野中学校に入学する。[5][4]。1911年(明治44年)三年の時、旧龍野藩の儒者について漢詩を学び、五言絶句、七言絶句を作成した。同級生の小林巌、松井了隠らと回覧雑誌を作り小説を寄稿した。また歌を詠み、その八首を校友会誌『龍雛』に発表した。5年のとき学生歌を作詞、これが一時校歌となって愛唱され、校歌が制定された後も学生歌として歌い継がれた[6][7]。
1914年(大正3年)9月旧制第一高等学校入学する。求道学舎に近角常観の歎異抄の講義を聴きに通う。当初、剣道部に入部するもボート部に転部しボート部で三輪寿壮や我妻栄と知り合う[8]。旧制第一高等学校2年の時に西田幾多郎の「善の研究」を読み哲学を学ぶことを決意する[9]。旧制第一高等学校から京都帝国大学に進学し西田幾多郎に師事する。大学在学中は西田幾多郎以外に田辺元(後に西田幾多郎の後継者となる)や左右田喜一郎らからも多くの影響を受けた[8][9]。また、谷川徹三、林達夫、小田秀人らとの交友がはじまり彼らの影響で和歌を多く詠んだ[10]。特に谷川徹三とは懇意にしており、詩を作るといつも谷川に見せて批評してもらっていた[11]。1921年4月教育招集され三ヶ月間姫路の歩兵第十連隊で軍隊生活を送る[12]。
大学卒業後は第三高等学校(旧制)、龍谷大学(第三高等学校では無く大谷大学であるという説もある[13])で教鞭をとる[14][4]。
1922年にドイツ留学。波多野精一の推薦と岩波茂雄から資金的な支援を受けている[9]。歴史哲学をハイデルベルク大学でリッケルトの元で学ぶ[15]。
当時のドイツは、第一次大戦後の混乱がまだ続いており、ヴェルサイユ体制の下での戦後秩序の回復を目指していた時期であった。ドイツは、敗戦国として1320億金マルクの賠償金の支払いを命じられ経済が逼迫していた。そこにフランスによるルール占領が拍車をかけ、急激なインフレが進行していた。このインフレのため日本から送られてくる留学資金が潤沢になり、三木のみならず多くの日本人がドイツに滞在していた。歴史の羽仁五郎、経済学の大内兵衛、カント研究の天野貞祐、後にハイデッガーについて学ぶ九鬼周造、哲学家から政治家になる北昤吉、キリスト教史学の石原謙、経済学の久留間鮫造、作家の阿部次郎、経済学の藤田敬三、糸井靖之、黒正厳、小尾範治、鈴木宗忠、大峡秀栄などがいた[12]。
1923年にはマールブルク大学に移り、マルティン・ハイデッガーに師事。ハルトマンの講義にも出席した。ハイデッガーの助手カール・レーヴィットと知り合う[15]。
田辺元に宛てた書簡の中に『ドイツの「精神」の弱さを感じ、新しい文化に甦ろうという意気込みが無いことに失望』(三木清全集 19巻 p274 田部元宛書簡より引用)とあり、1924年にはパリに移る。パリに長期滞在する予定は無かったので大学に席を置かず、フランス語の日用会話の勉強をした[16]。この間パスカル研究を開始。
1925年帰国し、翌年に『パスカルに於ける人間の研究』を発表。1927年には法政大学文学部哲学科主任教授となった。母校である京都帝大への就職を当然三木は望んだが、女性問題のために京都帝大から締め出されたと谷沢永一が著作の中で指摘している[17]。しかし、永野基綱によると『過去の女性関係が問題視されたといわれているが、口実であろう。(中略)三木が手記の中で「所謂講壇的哲学者には頭が有っても魂が無い。」と書いている。(中略)親しい場所では講壇哲学批判を口にしてもおかしくない。そのような若い研究者を「帝国大学」に受け入れるだけの度量が田辺らにあってなお、退けることが出来なかった(中略)友人丹羽は、それ以来、「わが兄、わが師、三木清を追い払った京都に、二度と来る気がしなかった。」と語っている。』 [18](永野基綱著 『三木清』p60-61より必要部分を抜粋引用)との記述もある。
同年12月に創刊された岩波文庫の巻末のマニフェストの草稿は三木が草稿を作成し岩波茂雄が「読書子に寄す」として書き上げ、岩波文庫巻末に今でも記載されている[19]。
雑誌『新興科学の旗のもとに』を羽仁五郎らと起こして、単なる政治的活動にとどまらない唯物史観(マルクス主義)の発展に腐心したが、1930年、日本共産党に資金提供をしたという理由によって逮捕され転向した。これを機会に教職に就けなくなった三木は、活動の場を著述活動に移さざるを得なくなった。三木が投獄されたのは治安維持法違反であるから戦後存命であれば、それだけで戦後左翼の英雄となり得る可能性はあった[20]。しかし、治安維持法にて投獄されている期間に、プロレタリア科学研究所哲学研究部主任を解任されており、存命であれば足かせになった可能性はある[21]。
1929年4月5日東畑喜美子と結婚し、1930年8月に娘の洋子が生まれる。清の妻・喜美子は東畑精一の妹であるが、洋子の幼時(1936年8月6日)に死亡している[22]。
その後、ジャーナリズムで活動する日々が続くが、1930年代後半には、後藤隆之助ら近衛文麿の友人たちが中心になって組織した昭和研究会に参加し、その哲学的基礎づけ作業を担当した[23]。三木はその際、「協同主義」という一種の多文化主義的な立場を掲げた。陸軍の独走によって硬直する日中関係に対する日本の側からの新政策につながるものとして、海軍から期待を集めたものの[24]、中国の側からの知的応答もなく、現実的な力は持たないうちに、短期間に色あせた。
戦後刊行された『三木清著作集』には、三木が昭和研究会でとりまとめた「新日本の思想原理[25]」「新日本の思想原理 続編 協同主義の哲学的基礎[26]」が収録されていないことや、遠山茂樹・今井清一・藤原彰共著『昭和史(旧版)』(岩波新書)には、昭和研究会の革新メンバーとして、三輪寿壮、蝋山政道、笠信太郎など5人の名前は挙げておきながら、三木の名前だけは挙げていない事を持って三木清の昭和研究会関与を岩波書店が恣意的に隠蔽したかのような説も竹内洋著の『革新幻想の戦後史(発行:2011年10月25日)[27]』の中には見られる。しかし、『三木清全集第17巻(発行:1985年12月6日)』には「新日本の思想原理」「新日本の思想原理 続編 協同主義の哲学的基礎」の両方が収録されている。また、『昭和史[新版](発行:1959年8月31日)[28]』には有馬頼寧、風見章、三輪寿壮、蝋山政道、笠信太郎、佐々弘雄とともに三木の名前も挙げられている。竹内が『革新幻想の戦後史[27]』を書く時期には既に改訂版も発行されており、改訂前と改訂後を併記しないのは我田引水と指摘されても致し方が無い。また、酒井三郎著『昭和研究会[29]』(中公文庫)によると第七章の2節を割いて三木の昭和研究会文化研究会参加に関するいきさつが詳しく記載されている。
総力戦体制に対する一定の『抵抗』と一定の『関与』という態度と行動は、同時代の転向知識人がかかえる二面性であり、三木もその二面性をかかえることになった。すでに軍部と皇道右翼によってマルクス主義はもちろん、自由主義者もまた活躍の余地を奪われていた。そのような息苦しい状況にあって、昭和研究会が検討する総力戦体制の効率化・合理化は、体制派の主流に対するある種の批判的意見表明、体制派の方針変更を可能にする最後の可能性と思われた。しかし、昭和研究会は軍部や保守勢力によって敵視され、不本意にも解散をよぎなくされた。やがてその流れは、大政翼賛会のなかに取り込まれていく。そのことにより、総力戦動員の合理性に託して、なんらかの社会変革を遂行するという知識人の当初の期待は、たんなる戦争協力へといっそう変質していくことになる。
1930年代末から1940年代にかけては、語学力を生かしてヨーロッパの最先端の知的成果を取り入れながら、マルクス主義をより大きな理論的枠組みのなかで理解しなおす「構想力の論理」を企てていたが、未完で終わる。1939年11月2日小林いと子と再婚する[22]。さらに最後には親鸞の思想にふたたび惹かれている。
1944年3月22日いと子夫人が死去する[22]。1945年、脱獄した治安維持法容疑者、高倉テルを庇護をした嫌疑で検挙拘留された[30][31]。東京拘置所に送られ、同6月に豊多摩刑務所に移された[32]。この刑務所は衛生状態が劣悪であったために、三木はそこで疥癬をやみ、それに起因する腎臓病の悪化により、終戦後の9月26日に独房の寝台から転がり落ちて死亡しているのを発見された。48歳没。終戦から一ヶ月余が経過していた。遺体を収めた棺は2日後、岩波書店社員の布川角左衛門が借りた荷車を用い、東畑精一宅に引き取られた[33]。中島健蔵が三木の通夜の当日に、警視庁への拘引から7月下旬まですぐ近くの監房にいて、詳しく様子を見たという青年から聞いた話として記しているところによると、疥癬患者の使っていた毛布を消毒しないで三木に使わせたために疥癬に罹患したという[34]。
三木の通夜の席で、松本慎一が『「政治犯即時釈放を連合軍に嘆願しよう」訴えた。』(荻野富士夫著『特高警察』p210 12行目より引用[35])。しかし提案自体が突然であり、通夜の席で話すべき話では無かった。このため、松本は用意した嘆願書草案の開示を諦めざるを得なかった[36]。
フランス人ジャーナリスト・ロベール・ギランらの[32]の奔走によって、敗戦からすでに1ヶ月余をへていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受け続けている実態が判明し、占領軍当局を驚かせた。旧体制の破綻について、当時の日本の支配者層がいかに自覚が希薄であったのかについての実例である。この件を契機として治安維持法の急遽撤廃が決められた。
1945年には京都学派に分類される西田幾多郎と戸坂潤も亡くなっている。
法名は、真実院釋清心。なお蔵書は法政大学に所蔵されている。1997年、龍野市から名誉市民の称号が与えられた。
三木の著書・「読書と人生」と「哲学ノート」は向上心に溢れた戦後の若者らの愛読書となった。
思想[編集]
中等学校時代[編集]
旧制龍野中学校では、二年生の時着任した国語担当の寺田喜治郎教諭の影響で読書に興味を持ち、文学書を愛読するようになった[5][37]。三年生になり、小林巌(中学卒業後、第六高等学校から京都帝国大学に入学し生理学を専攻、29歳で学位を獲得するも30歳で死亡)、土井申二(海軍兵学校卒業)と一緒に本間貞観(元脇坂藩の儒学者で、当時龍野中学で漢文を教えていた)の自宅に通って漢詩を習い、作成した漢詩を添削してもらっていた[38][39]。五言絶句十首、七言絶句六首が残されている[40]。
同級生の小林巌の影響で永井潜の『生命論』、丘浅次郎の『進化論講話』などを読み、生命のへの関心を持ち、哲学研究に進むきっかけとなった[41][42]。
高等学校時代[編集]
第一高等学校の在学中、宗教興味を持ち、キリスト教、仏教の文献をよみ、特に親鸞の歎異抄に感銘を受け、東京本郷で求道学舎を主宰していた真宗大谷派僧侶の近角常観による歎異抄の講義を聴きに通った。聴講生には倉石武四郎もいた[43][44]。また、二年生のとき、倉石武四郎らと塩谷温の資治通鑑の読書会に参加した。高校三年の時、みずから哲学の購読会を作り、教授の速水滉にヴィルヘルム・ヴィンデルバントの『プレルーディエン』の中の「哲学とは何か」について購読をしてもらう[44]。同年、西田幾多郎の善の研究を読んで感激し、哲学専攻の決意を固めた[45]。
大学・大学院時代[編集]
三木は1917年の京都帝国大学入学から、ドイツ留学に出発する1922年までの間に『哲学研究』誌上に四本の論文を執筆している。学生時代及び大学院時代の三木は2つの問題に関心を持っていた。一つは「個性の問題」でありもう一つは「歴史哲学の問題」である[46]。また、三木は新カント派的ではあるが、論文の中で新カント派の領域をはみ出してしまう傾向があり、それは西田幾多郎の影響が色濃いと赤松常弘は述べている[46]。
「個性の理解」、「批判哲学と歴史哲学」、「歴史的因果律の問題」、「個性の問題」これらの論文はいずれも新カント派哲学の立場から「個と歴史」の関係、「個と普遍」の関係について考察した論文である。高校時代から岩波書店哲学叢書で新カント派哲学に親しんできた三木は、波多野精一から西洋哲学を学ぶためにはキリスト教理解と歴史研究が重要である、という示唆を受け歴史哲学を自身の中心的な研究テーマにした[16]。
ドイツ留学時代[編集]
ハイデルベルク[編集]
1922年(大正11年)6月24日ドイツ到着。ハインリッヒ・リッケルトに師事する[47]。
リッケルトのもとハイデルベルグではマックス・ウェーバーとエミール・ラスクについて研究を進めた[48][49]。特にマックス・ウェーバーについてはリッケルトのゼミナールでウェーバー著の科学論論集をテキストにして学んでいる[49]。冬学期には「個別的因果性の論理」をゼミナールにて発表している[47]。リッケルトが自宅で開催していた演習ではカール・マインハイム、オイゲン・ヘリゲル、ヘルマン・グロックナーらと席を同じくして知り合いとなった[48][47]。ハイデルベルグではリッケルト以外にもエンスト・ホフマンのギリシャ哲学の講義に出席し演習にも参加した[50][47]。
マールブルク[編集]
マールブルグではニコライ・ハルトマンに師事するもすぐに失望している[51]。田辺元と羽仁五郎宛の書簡の中で、ハルトマンに対して厳しい批判を行っている[52]。三木は、古典の解釈を中心として進められるハイデッガーの演習に参加しながら新カント派的な「認識の対象としての歴史」に加えて「生の存在論としての歴史」、「生の批評としての歴史」という新たな歴史哲学研究の方法を学んだ。また、この頃ハイデガーの助手を務めていたカール・レーヴィットと親しく交わった。マールブルクを離れてパリに移ってからも手紙で読書の指南を受け、ヴィルヘルム・ディルタイ、フリードリヒ・シュレーゲル、フンボルトや当時の流行思想であった不安の哲学や不安の文学に対する興味を喚起された。ニーチェやキェルケゴールなどの実存哲学、ドストエフスキーの小説などを耽読したのもレーヴィットの影響である。
パスカル研究[編集]
1924年8月パリを訪れた三木は『この冬ごろ、ふとパスカルを手にし、心を捉えられてその研究に専念し始めた』(三木清全集 20巻 年譜325頁1行目より引用[53])とあり、1925年2月に、その第一論文「パスカルと生の存在論的解釋」を完成した。これは日本に送られ、同年5月、雑誌『思想』の第43号に掲載される。第二論文「愛の情念に関する説ーパスカル覚書ー」は同年8月の第46号、第三論文「パスカルの方法」は同年11月の第49号、第四論文「三つの秩序」はパリから送付はされたが、なぜか掲載されず、第五論文「パスカルの『賭』」は同年12月の第50号に載った。はじめは第七論文まで計画していたと思われるがそれは成らず、1925年10月に帰国後、第六論文「宗教における生の解釋」を書き加えて、1926年6月『パスカルに於ける人間の研究』として岩波書店から出版された[54]。
三木によるパスカル研究は、実存主義的な立ち位置でのパスカル研究でパスカルを通じて実存主義思想を述べていると理解することも出来る[55]。
マルクス主義[編集]
フランスより帰国後パスカル研究者として日本で評価されるものの、福本和夫がマルクス主義研究で成果を上げていること知り『俺でも福本位いなことは出来る、と傲語』(戸坂潤「三木清氏と三木哲学」103ページ上段14行目より引用[56])したとあるように、パスカルに続いてマルクスについても研究を始める事になった。流行を追うことだけが目的では無く、ドイツに留学し歴史哲学を志した研究者がマルクス主義の提起する問題について研究するのは当然の帰結であるとも言える[57]。
三木のマルクス主義について赤松常弘が『三木がマルクス主義者になったわけでは無い。』(「三木清ー哲学的思索の軌跡」79ページ15-16行目より引用 [58])と記載しており、また戸坂潤は「三木清氏と三木哲学」の中でも、三木の思想の変遷について批判しており、三木のマルクス主義についても左傾化も三木の歴史哲学の発展であると述べ、マルクス主義者になったわけでは無いと批判している[59]。元来三木は独創家では無く優れた解釈家であるというのが戸坂の主張[59]であり、赤松も時代の状況の中で三木の著述は書かれているので時代と切り離すことは出来ないと述べている[60]。三木のマルクス主義については戸坂潤の評価が手厳しい[61]。しかし、他方で三木と戸坂は戸坂が三木を痛烈に批判した論文である「三木清氏と三木哲学」発表後も酒を飲み交わす仲であった[62]。
福本は当時の文部省留学生として三木と同様にドイツに留学し、もっぱらマルクス主義を学び三木より一年早く1924年に帰国している[63]。帰国後はマルクス・レーニン等の論文を引用することで権威づけられた論文を次々と発表する[63]。このような手法は三木も得意としているため、『俺でも福本位いなことは出来る、と傲語』した三木の言葉は傲語にあたらないとも言える。1926年に福本は豊富な知識をもとに山川均の方向転換論を批判し、一気にマルクス主義の理論的指導者の地位を得る。福本の理論は、マルクス主義を指導する党と指導される大衆をはっきりと分離する事を基本としている。厳しい理論闘争によって革命的少数者の党を結成し、大衆を指導することでマルクス主義主導権を党が握るべきであると主張した[63]。日本共産党の頭の固さは既にこの頃から現在にいたるまで脈々と引きつがれている事が明らかである。福本は「福本イズム」にもとづく共産党を秘密裏に結成し、マルクス主義指導者として1927年にロシアに向かいコミンテルンの承認を得て一層の権威付けを行う事を画策する[63]。しかし、レーニン死後のロシアではスターリンが世界永久革命を目指すトロツキーまでも追放し党を独裁していた。このため、当時のコミンテルンは山川や福本の日本共産党の独自路線を認めず、ソヴィエト連邦擁護を中心とした日本共産党に対する新方針を突きつけられ、福本イズムは否定されマルクス主義指導者としての権威が失墜し党から離れざるを得なくなった[63]。
福本がロシアに渡った頃、三木は上京する。そして傲語したとおり1927年6月時点で友人の丹羽五郎宛に唯物史観に関する解釈を作り上げたとの書簡を送る[63][64]。1924年にふとパスカルを手にし1926年6月に『パスカルに於ける人間の研究』を発行するのと同様に三木は仕事が早い。所詮海外の文献を焼き直したに過ぎないと言う評価も当たらずとも遠からずな部分はあるが、恐ろしき翻訳力である。戸坂潤も「三木清氏と三木哲学」の中で『三木清なる学者は、優れた独創家というよりもむしろ優れた解釈家』(戸坂潤「三木清氏と三木哲学」136ページ14-15行目より引用 [65])と評している。これはアンチ三木派も認めるべき資質であろう。
1927年、最初のマルクス主義論「人間学のマルクス的形態[66]」を岩波書店の雑誌「思想」に発表する[67][68]。翌年5月には既に「思想」発表済みの「マルクス主義と唯物論[69]」(8月発表[70])「プラグマチズムとマルキシズムの哲学[71]」(12月発表[70])に「ヘーゲルとマルクス[72]」加えて四編の論文で構成される「唯物史観と現代の意識[73]」を発表する。「人間学のマルクス的形態」は人間学から見たマルクス主義を論じており、マルクス主義における人間を論じているわけでは無く、福本に対する批判も含まれていない。しかし、「プラグマチズムとマルキシズムの哲学」では理論闘争の必要性を強く訴え、福本の指導者と大衆に分離する考え方を批判している[70]。
結果として三木は日本共産党に資金提供していたことで逮捕され形式上転向する。三木が逮捕拘留中に三木のマルクス主義は歴史学者の服部之総によって観念論と否定される。具体的には、三木は「物質」を「解釈的概念」ととらえており、無条件に物質を存在と認める唯物論に相反しているため唯物論を基本とするマルクス主義に反しているという議論である[74]。結果として三木は、まさに福本くらいのことを実践した。
昭和研究会[編集]
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構想力の論理[編集]
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文学者との交流[編集]
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その他[編集]
- 霞城館・矢野勘治記念館
- 館内には、龍野が生んだ現代の文化人、三木露風、内海信之、矢野勘治、三木清ら4氏に関する文献や資料を一堂に集め、展示している[76]。三木露風と三木清は親戚では無いと三木自身が読書遍歴[77]の中で記載している。
著書[編集]
単著[編集]
全集[編集]
- 『三木清著作集』 全16巻 岩波書店、1946-1951年
- 『三木清全集』 岩波書店(第1刷・全19巻、1966-1968年/第2刷・全20巻、1984-86年)
翻訳[編集]
脚注[編集]
- ↑ 廣松 1998, p. 1,542.
- ↑ a b 廣松 1998, p. 247.
- ↑ a b 三木 1986a, p. 313.
- ↑ a b c d 三木 2013, p. 194.
- ↑ a b c 三木 1986a, p. 314.
- ↑ 三木 1986a, p. 317.
- ↑ 三木 2013, p. 194-195.
- ↑ a b 三木 1998, p. 318.
- ↑ a b c 三木 2013, p. 195.
- ↑ 桝田 1986, p. 320-321.
- ↑ 桝田 1986, p. 321.
- ↑ a b 桝田 1986, p. 322.
- ↑ 久野 1966, p. 437.
- ↑ 三木 1998, p. 314.
- ↑ a b 三木 2013, p. 196.
- ↑ a b 三木 1984a, p. 399-400.
- ↑ 谷沢 1966, p. 71.
- ↑ 永野 1966, p. 60-61.
- ↑ “岩波文庫略史 第2回”. 岩波書店 (1927年7月10日). 2016年10月18日確認。
- ↑ 竹内 2011, p. 104.
- ↑ 鷲田 1986, p. 59-60.
- ↑ a b c 桝田 1986a.
- ↑ 酒井 1992, p. 52-58.
- ↑ 高坂 2000, p. 144.
- ↑ 三木 1985a.
- ↑ 三木 1985b.
- ↑ a b 竹内 2011.
- ↑ 遠山 1959.
- ↑ 酒井 1992.
- ↑ 廣松 1998, p. 1542 右段 52-53行目.
- ↑ 荻野 2000, p. 184.
- ↑ a b “証言 日本の社会運動 「救援運動の再建と政治犯の釈放(3・完)」(PDF)”. 大原社会問題研究所雑誌 (2002年6月). 2016年10月30日確認。
- ↑ 桝田 1985a.
- ↑ 中島 2013, p. 261.
- ↑ 荻野 2012.
- ↑ 荻野 2012, p. 210.
- ↑ 三木 2013, p. 15.
- ↑ 三木 1986a, p. 315.
- ↑ 三木 2013, p. 22.
- ↑ 三木 1986b, p. 3-8.
- ↑ 三木 1986a, p. 316.
- ↑ 三木 2013, p. 18.
- ↑ 三木 1986a, p. 318.
- ↑ a b 三木 2013, p. 35.
- ↑ 三木 1971, p. 536.
- ↑ a b 赤松 1994, p. 4.
- ↑ a b c d 三木 1986a, p. 322.
- ↑ a b 三木 1984a.
- ↑ a b 荒川 1968, p. 24.
- ↑ 三木 1984a, p. 416.
- ↑ 永野 2015, p. 45.
- ↑ 三木 1986b, p. 221-223.
- ↑ 三木 1986b.
- ↑ 桝田 1984b, p. 489-496.
- ↑ 桝田 1984b.
- ↑ 戸坂 1967, p. 103.
- ↑ 荒川 1968, p. 103.
- ↑ 赤松 1994, p. 79.
- ↑ a b 戸坂 1967, p. 105.
- ↑ 赤松 1994, p. iii.
- ↑ 後藤 2007.
- ↑ 三木 1986b, p. 186.
- ↑ a b c d e f 永野 2015, p. 67.
- ↑ 荒川 1968, p. 92.
- ↑ 戸坂 2007, p. 136.
- ↑ 三木 1984b, p. 5-41.
- ↑ 永野 2015, p. 69.
- ↑ 三木 1984b, p. 3.
- ↑ 三木 1984b, p. 42-77.
- ↑ a b c 荒川 1968, p. 106.
- ↑ 三木 1984b, p. 78-118.
- ↑ 三木 1984b, p. 119-156.
- ↑ 三木 1984b.
- ↑ 永野 1966, p. 114-115.
- ↑ “龍野公園:哲学の小径”. たつの市. 2016年7月30日確認。
- ↑ “霞城館・矢野勘治記念館”. たつの市. 2016年7月30日確認。
- ↑ 三木 2013, p. 2.
出典・引用等[編集]
- 荒川幾男 『三木 清』B-30、紀伊國屋書店〈紀伊國屋新書〉、1968年2月29日、1st。
- 赤松常弘 『三木清ー哲学的思索の軌跡』11、ミネルヴァ書房〈Minetva21世紀ライブラリー〉、1994年5月20日、1st。ISBN 4-623-02417-2。
- 久野収 『三木清』33巻、筑摩書房〈現代思想体系〉、1966年5月30日 発行、1st。
- 高坂節三 『昭和の宿命を見つめた眼 父・高坂正顕と兄・高坂正堯』 PHP研究所、2000年12月9日 発行、1st。
- 後藤嘉宏 『戸坂潤の常識と、三木清』 図書館情報メディア研究 5巻2号、2007年12月20日、1st、57-87頁。
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- 遠山茂樹 今井清一 藤原彰 『昭和史[新版]』青版、岩波書店〈岩波新書〉、1959年8月30日、初版 第1刷。ISBN 4-00-413130-8。
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- 永野基綱 『三木清』177、清水書院〈人と思想〉、2009年4月20日、1st。ISBN 978-4-389-41177-0。
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- 『岩波 哲学・思想辞典』 廣松渉 子安宣邦 三島憲一 宮本久雄 佐々木力 野家啓一 末木文美彦、岩波書店、1998年3月18日 発行、1st。ISBN 4-00-080089-2。
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- 桝田啓三郎 『編集後記』1巻、桝田啓三郎、岩波書店〈三木清全集〉、1984年7月6日、2nd。
- 桝田啓三郎 『月報』8巻、桝田啓三郎、岩波書店〈三木清全集〉、1985年3月6日、2nd。
- 桝田啓三郎 『年譜』20巻、桝田啓三郎、岩波書店〈三木清全集〉、1986年3月6日 発行、2nd。
- 三木清 『読書遍歴』1巻、桝田啓三郎、岩波書店〈三木清全集〉、1984年7月6日、2nd。
- 三木清 『唯物史観と現代の意識』3巻、桝田啓三郎、岩波書店〈三木清全集〉、1984年10月5日、2nd。
- 三木 清 『新日本の思想原理』17巻、桝田啓三郎、岩波書店〈三木清全集〉、1985年12月6日、2nd、507-533頁。
- 三木 清 『新日本の思想原理 続編 協同主義の哲学的基礎』17巻、桝田啓三郎、岩波書店〈三木清全集〉、1985年12月6日、2nd、534-588頁。
- 三木清 『書簡 遺稿 補遺 他』20巻、桝田啓三郎、岩波書店〈三木清全集〉、1986年3月6日、2nd。
- 三木清、鷲田清一(解説)、柿谷浩一(年譜) 『読書と人生』 講談社〈講談社文芸文庫〉、2013年9月10日、1st。ISBN 978-4-06-290207-6。
- 三木清 『哲学と人生』 桝田啓三郎、講談社〈講談社文庫〉、1971年7月30日、1st。