松尾芭蕉

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松尾芭蕉像 大垣市
『おくの細道むすびの地記念館前』
生誕地 伊賀市上野
生誕地 伊賀市柘植[読 1]
蕉風発祥の地記念碑 名古屋市テレビ塔東側
墓地 滋賀県大津市
義仲寺

松尾芭蕉(まつお ばしょう、1644年(寛永21年) - 1694年11月28日(元禄7年10月12日))は、江戸時代前期の俳人。現在の三重県伊賀市出身。芸術性の極めて高い句風を確立した。

来歴[編集]

1644年、伊賀国(現在の三重県伊賀市)に松尾家の次男として生まれる[1]。松尾家は没落した武士階級の家であった。そのため苗字帯刀は許されていたが、暮らしはぶりは農民並みであった[2][注 1]。生家については2説有り伊賀市内の2ヶ所に松尾芭蕉生誕地の記念碑等が設置されている。13歳で父、与左衛門がなくなる。

19歳から津藩伊賀付侍大将の藤堂新七郎の嫡男である藤堂良忠に使えた。良忠の俳号は『蝉吟[読 2]』であった。芭蕉の才能が認められ良忠から『宗房[読 3]』という俳号を与えられた[1]。『春やこし年や行きけん小晦日[読 4]』(『新版 おくの細道 現代語訳/曽良随行記付き』 p=318 17行目より引用[3])が芭蕉最初期の句として現在知られている。

良忠と芭蕉は精力的に俳諧の道を進んでいたが、良忠が芭蕉23歳の時に急逝し主君を失うこととなる[1]。 以降、伊賀の兄の家に身を寄せるとともに[1]、精力的に俳句を毎年発表する[4]

1675年(延宝3年)もしくは1674年の冬、江戸へ下る[5][注 2]。1676年(延宝4年)に俳号を桃青[読 5]にあらためる。芭蕉は水道工事関係の仕事につくなどして生計を立てながら、句会に参加し精力的に俳諧の道を究めるとともに、人脈づくりを進めた[6]。この時代、俳諧の世界では貞門派に変わって談林派が隆盛を極めていたが、1682年に西山宗因が逝去し、談林派の隆盛も終わる[6]

江戸へ下り、宗匠としての生活が安定してきた1680年(宝暦8年)に深川に居を移す。当初、杜甫にちなんで泊船堂と名付けたが、1681年(宝暦9年)春に芭蕉の株を植え芭蕉庵と改名した[7][注 3]。この頃より、杜甫李白陶淵明といった中国の詩人に傾倒する[6]

宗匠として名声が高まる中、1684年(貞享元年)に後に『野ざらし紀行』として発表される名古屋、京都、奈良、伊勢をめぐる旅に出る。この紀行文以降、1867年(貞享4年)には深川の芭蕉庵を出て、行徳・八幡・鎌ヶ谷を経て、布佐から船で鹿島を訪れる『鹿島詣』の旅と、江戸から鳴海・保美を経て郷里の伊賀上野で年を越し、2月に伊勢参宮、3月には平井杜国との二人旅で吉野の花見を経由し高野山・和歌浦に入り、さらに大阪から須磨・明石を訪れる『笈の小文』の旅に出ている。1688年(貞亨5年)芭蕉は門人越人を伴い、多数の美濃の門人に見送られて、美濃の地から帰途の旅にもなる『更級紀行』の旅に出た。1689年(元禄2年)芭蕉46歳の時に芭蕉の生涯で最も長い旅となる『おくの細道』の旅に出る[6][8]

おくの細道の旅以降、体調を崩しながらも、江戸、京都、奈良、伊賀を行き来する。1964年(元禄7年)伊賀から大坂の門人のもとへ病を押して出かけるが、大坂にて51歳で没する[6][9]

蕉風について[編集]

俳諧とは元来「滑稽」という意味の名詞であった[10]。俳諧が文芸として芸術性を持つのは江戸時代に入ってからである[11]。形式は古来からの連歌を踏襲するが、言葉は俗語を用いることが可能であり、表現の幅が大きく広がったことに特徴がある[11]。俳諧である以上、笑いの要素が含まれていなければならないが、江戸時代初期の俳諧では卑俗すぎる笑いを排除する方向に俳諧の定義が確立されていった[12]。このような定義を広めていったのが松永貞徳からはじまる貞門俳諧であり[13]、俳諧を生業とする俳諧師が世に認知され俳諧人口が増大した[14]

また、芭蕉が俳諧の道に進んだ頃、連句中心の俳諧から発句の独立性が確立されつつあった[15]。しかし、基本は連句であることに変わりは無く芭蕉も連句を中心に活動をする事になる。当初は貞門俳諧に倣って芭蕉も俳諧の道を進むものの、江戸へ下ってからは西山宗因を中心とする貞門俳諧より新鮮な滑稽、より新鮮な機知、開放感を追及する談林俳諧[16]の道に進むこととなる[17]

芭蕉は貞門俳諧、談林俳諧を経験することで古典を戯画化する事を学んだ。芭蕉は貞門俳諧、談林俳諧をもとに戯画化するまでもなく俳諧は成立するという主張を俳諧に込めるようになる[18]。この主張は2つの意味を持つ。まず一つは「古典」という枠を俳諧から取り払ったことである[18]。もう一つは卑属・通俗を俳諧に求め無くても良いことである[18]。この考え方により、連歌から初期俳諧において表現の幅が広がったように、一段と俳諧の表現の幅が広がった[18]

しかし、この考え方は芭蕉が生きた元禄時代においては少数派であった[18]。芭蕉を中心とする一門の俳諧表現の特徴は、連句における付合[読 6]に顕著に見られる。貞門派や談林派の付合は、前句に対して付合は、前句の単語と付合の単語が単語毎に想像出来るものであること、しかも、付合の付句一句としても一種の情景を示す物で無いといけなかった。 例えば、『踊りはねつつ舞い遊ぶ春』(芭蕉の表現 17ページ5行目より引用[19])という前句に対して付合として『駒つなぐ花の木陰の蝶雀[読 7]』(芭蕉の表現 17ページ5-6行目より引用[19])がある。この前句と付合の中で「踊り」に対して「雀」、「はねつつ」に対して「駒」、「舞」に対して「蝶」を連想させるセットとして組み合わせるとともに、付合だけでも一句として成立させている。この表現手法は談林俳諧においても基本的には変わらなかったが[19]、貞門俳諧と比較すると付句 一句には自立した意味は保たれるが、前句との関係からは自由になった[20]

これに対して蕉風においては、前句と付句の間の関係性がより自由になった。ありもしない事、過去になかったこと等を定型韻文の世界で堂々と表現することで、俳諧の滑稽を表現した[19]。しかし、この技法は芭蕉が古典に造詣が深く、和漢の伝統的学問の常識に対する知識が豊富でありその常識に逆らわず、常識を生かすことで自己の表現が生きることを知っていたから出来た技法である[21]

誰もが現実の感動の前で言葉を失うことがある。しかし、俳諧の世界ではその感動を言葉によって固定化する必要がある。その際、同じ感動を示す意味の言葉であっても、既に錬磨され選び抜かれた言葉を使うのが望ましく、結果として古典的言語を使うことで、過去から現代に脈々と強い力によって貫かれている強い言葉により歴史に連なる感動が生まれる。これは、前段で「古典という枠を取り払った」事と矛盾するようにも見えるが、枠を取り払ったのは形式であり、言葉の力を取り払ったわけでは無い[21](一部独自研究を含む)。

不易流行[編集]

不易とは俳諧はもとより、芸術全般には時代や流派等を超えてある一貫したものがあり、それが芸術全般の本質的なものであるとする考え方。流行とは不易なものも時代や流派や芸術の種類によって、表現は変化していくことは永遠に続くという考え方である[22]

不易とは絶対的な考え方、幻術の根本を示す。不易とは絶対的な考え方とは抽象的なものであり、不易を具体的な作品として表現する際には時代や作者らしい現れ方をするものである。むしろ不易を表現するにはその時代に沿った新しい表現や発想、作者としての独自性が作品の中に込める。つまり流行を取り入れてこそ不易=本質的な物が表現出来るという考え方である[23][24]

不易流行論では、不易でありながら流行に敏感である事が求められている。流行は新しさの追求となって俳諧の中に現れる事になる。逆説的に言えば新しさの追求が流行である[25]。常に変化を求めて新しさを追求すると言う事は、過去を否定する事にもつながり、自己否定の連続となる[25]

不易流行論の中で芭蕉は、かつて芭蕉自身も追い求めた、風流や、反俗性・脱社会性の強調も以前ほど必要では無くなる。従って、反俗性を旗印の一つとしていた蕉風俳諧を世間に広め流行することにより、反俗性・脱社会性の強調が通俗化してしまう事も無くなる。 言い換えれば、反俗性を放棄するのではなく、反俗性を内に秘める事により、反俗性を極端に強調することを行わず、その代わりに自己革新を永続的に追及する必要が生まれたと言う事である[25]

軽み[編集]

軽みの反意語は重みである。芭蕉は重くない句を作る事をおくの細道以降主張するようになる。重い句とは観念的な句、風流ぶった句、故事や古典に寄りかかった句をさす[26]。去来の紹介で入門した凡兆[読 8]が芭蕉に高く評価された句として『門前の小家もあそぶ冬至かな[読 9]』という句がある。冬至は禅寺が休みの日で有り、寺が休みゆえ寺の門前の小家もあそんでいる。という何気ない句である。しかし、この句は和歌の世界ではもちろんのこと、今までの俳諧の歴史の中にも無い新たな観点がある。庶民的・日常的な生活の一コマを切り取っているところを芭蕉は評価している[27]

芭蕉はこの頃『川風や薄柿着たる夕涼み[読 10]』、『海士の屋は小海老にまじるいとどかな[読 11]』と言った、何処にでもありそうな風景を切り取った句を作っている。和歌的な情緒や趣といったものとは全く違った、新しい俳諧らしい独特な素材の取り上げかたをしている[27]

その頃江戸では、俳諧の流行とともに「点取俳諧」が充満していた。点取俳諧とは読んで字のごとく、宗匠に連句の点数をつけて貰い、点数の多い少ないを競う遊戯俳諧である。芭蕉はそういった風潮に驚き嘆くとともに、大衆的・遊戯的俳諧とは異なる芸術としての俳諧の道に進む事になった[28]

軽みを追求する芭蕉を代表する句として『春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏[読 12]』『鞍壷に小坊主乗るや大根引き[読 13]』『寒菊や小糠かかる臼の端[読 14]』『煤はきは己が棚つる大工かな[読 15]』等があるが、これらの光景はいずれも日常だれでも目にしている。それが語句平易な言葉で表現されいる。これが軽みの句の特徴である[29]

代表的作品[編集]

紀行文[編集]

脚注[編集]

読み方[編集]

  1. つげ
  2. せんぎん
  3. そうぼう
  4. はるやこし としやいきけん こつもごり
  5. とうせい
  6. つけあい
  7. こまつなぐ こかげの てふすずめ
  8. ぼんちょう
  9. もんぜんの こいへもあそぶ とうじかな
  10. かわかぜや うすがききたる ゆうすずみ
  11. あまのやは こえびにまじいる いとどかな
  12. はるさめや はちのすつたう やねのもり
  13. くらつぼに こぼうずのるや だいこひき
  14. かんぎくや こぬかかかる うすのはた
  15. すすはきは おのがたなつる だいくかな

注釈[編集]

  1. 無足人(無給の准士分待遇)
  2. 『入門 松尾芭蕉』では30歳との記述がある
  3. 『入門 松尾芭蕉』では当初より芭蕉が植えられていたとの記述がある。

出典[編集]

  1. a b c d 奈落 2018, p. 78.
  2. 松尾 2003, p. 317-318.
  3. 松尾 2003, p. 318.
  4. 松尾 2003, p. 320-321.
  5. 松尾 2003, p. 322.
  6. a b c d e 奈落 2018, p. 79.
  7. 松尾 2003, p. 324.
  8. 松尾 2003, p. 326-328.
  9. 松尾 2003, p. 328-331.
  10. 田中 2010, p. 3.
  11. a b 田中 2010, p. 4.
  12. 田中 2010, p. 6.
  13. 井本 1986, p. 17.
  14. 田中 2010, p. 7.
  15. 井本 1986, p. 21.
  16. 井本 1986, p. 20.
  17. 井本 1986, p. 30.
  18. a b c d e 上野 2005, p. 16.
  19. a b c d 上野 2005, p. 18.
  20. 上野 2005, p. 19.
  21. a b 上野 2005, p. 20.
  22. 井本 1986, p. 136.
  23. 井本 1986, p. 136-137.
  24. 上野 2005, p. 27-28.
  25. a b c 井本 1986, p. 170.
  26. 井本 1986, p. 172.
  27. a b 井本 1986, p. 173.
  28. 井本 1986, p. 189.
  29. 上野 2005, p. 279-280.


参考・引用等[編集]

  • 井本農一 『芭蕉入門』122、講談社〈講談社学術文庫〉、1986年2月5日、1st。ISBN 4-06-158122-8
  • 上野洋三 『芭蕉の表現』1200、岩波書店〈岩波現代文庫〉、2005年11月16日、1st。ISBN 4-00-600151-7
  • 田中善信 『芭蕉』2048、中高校論者〈中公新書〉、2010年3月25日、1st。ISBN 978-4-12-102048-2
  • 奈落一騎 菊池昌彦 清塚あきこ 『入門 松尾芭蕉』2375、藪内建史 遠藤昭徳 石田理恵、宝島社〈別冊宝島〉、2015年8月28日、1st。ISBN 978-4-8002-4363-8
  • 松尾芭蕉 『新版 おくの細道 現代語訳/曽良随行記付き』12878、潁原退蔵 尾形仂、KADOKAWA〈角川文庫〉、2003年3月25日、3rd。ISBN 978-4-04-401004-1