正岡子規
正岡 子規(まさおか しき、慶応3年9月17日(1867年10月14日) - 明治35年(1902年)9月19日)は、日本の俳人・歌人。江戸時代以来の俳句を革新し、短歌の革新も行った。散文では写生文を創始した。平成29年(2017年)10月24日に囲碁殿堂入り。子規とは自らが喀血した際、鳴いて血を吐くとされるホトトギスのようだとして号したものである。
経歴[編集]
幼少時代[編集]
1867年(陰暦慶応3年9月17日、陽暦10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町3-5)で生まれる。本名、常規(つねのり)。 幼名、処之助(ところのすけ)。5、6歳の頃、升(のぼる)と改める。友達から「ところてん」と悪口を言われるため改名したと言われる。父は伊予松山藩藩士・正岡常尚(35歳)、母は藩の儒学者・大原観山有恒の長女・八重(23歳)である。父の通称は隼太、松山藩の御馬廻り加番で禄高50俵であった。明治元年(1868年)、湊町新町(現湊町4丁目1番地)に転居する。1869年(明治2年)、2歳のとき、正岡家、失火により全焼する。1870年(明治3年)、妹・律、誕生。1872年(明治5年)1月、家督を相続する。同年3月、大酒飲みのため父は死亡する(39歳)。6歳の時、ドイツ哲学者で牧師の三並良と外祖父・大原観山の私塾に通って漢書の素読を習う。明治6年(1873年)、寺子屋式の小学校、末広学校(後の松山知環小学校)に入学し、明治7年(1874年)、愛媛県が開校した勝山小学校に転校する。
俳句[編集]
1880年(明治13年)、勝山小学校を卒業し、旧制松山中学校(現・松山東高)に入学、三並良、竹村鍛らと「同親会」を結成。河東静渓(竹村鍛・河東碧梧桐の父)に指導を受ける。明治14年(1881年)、詩会・書画会をさかんに催す。明治16年(1883年)5月、松山中学を退学。同年、上京し、須田学舎に入学する。のちに受験のため共立学校(現・開成高校)に入学。明治17年(1884年)、旧藩主・久松松平家の給費生となる。月額7円(大学入学後は10円)・教科書代の支給を受ける。同年7月、試みに大学予備門(明治19年(1886年)、第一高等中学校と改称)の入学試験を受験し、合格する。同級生には同郷で旧知の秋山真之の他、芳賀矢一・夏目金之助・山田美妙・菊池謙二郎がいた。明治20年(1887年)、第一高等中学校予科進級。明治21年(1888年)、第一高等中学校予科卒業。1889年(明治21年)6月、第一高等中学校を卒業。9月、文科大学国文科に入学する。同級に夏目漱石、芳賀矢一、南方熊楠、山田美妙。同年、時鳥(ほととぎす)の句を四、五十句作り、初めて子規と号す。1890年(明治23年)9月、文科大学(東京帝国大学)哲学科入学。1891年(明治24年)、哲学科から国文科に転科。1892年(明治25年)、学年試験に落第し、退学を決意する。同年12月、日本新聞社入社、月給15円。福本日南、三宅雪嶺、千葉亀雄、佐藤紅緑、長谷川如是閑などがいた。
明治26年(1893年)5月、初めての単行本『獺祭書屋俳話』を日本新聞社より刊行する。明治28年(1895年)、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。同年5月17日、帰国途上、船中で喀血。重態に陥り、5月23日に県立神戸病院に入院。明治29年(1896年)、子規庵で句会。鴎外・漱石が参集。明治30年(1897年)、松山で「ほとヽぎす」創刊。1898年(明治31年)、「歌よみに与ふる書」を「日本」に連載開始、短歌革新に着手する。
晩年[編集]
明治32年(1899年)、『俳諧大要』ほとゝぎす発行所から刊行。明治33年(1900年)、『蕪村句集講義』(春之部)刊行。明治34年(1901年)、「墨汁一滴」連載(164回、「日本」1.26~7.2)。明治35年(1902年)9月18日、朝から容態悪化、午前中、絶筆三句を詠む。9月19日午前1時頃、絶息が確認される。9月21日、葬儀が行われ、田端の大龍寺に埋葬される。会葬者150余名。戒名、子規居士。
業績[編集]
子規の業績[編集]
子規は明治時代を代表する俳人であり、俳句の革新を成し遂げたことで知られている。子規はそれまでの俳諧から発句を独立させ、俳句という名で独立させた。明治時代には松尾芭蕉が神格化されていたため、陳腐化した俳句が作られていた。それまでの俳諧は2人以上で催もよおすものであり、長句と短句を繰り返し、三十六句、五十句、百句、千句とつなげるものであった。子規は俳句は文学なり、連句は文学に非ずと断じ、一句で独立して味わえるものとした。子規の提唱により俳諧はなくなり、子規以後は「発句」といわず「俳句」が定着した。
写生文は絵画の写生(スケッチ)を文章にも適用し、作者の目に触れた事物を描くことである。子規は1900年(明治33年)1月、新聞「日本」に発表した「叙事文」で言葉や文章を飾らないこと、誇張や空想を加えないこと、見たままの光景を模写すること、写生するものと写生しないものを取捨選択すること、文体は言文一致とすることを主張した。子規の写生文は平凡なものであったが、写生文は高濱 虛子、寒川鼠骨、河東壁悟桐などの門下生に引き継がれ、虚子の『柿二つ』や伊藤左千夫の『野菊の墓』などの小説を生み出した。
殿堂入り[編集]
平成14年(2002年)、野球を詠んだ短歌、俳句を数多く作ったことから、野球の普及に多大な貢献をしたとして野球殿堂入りした。新世紀特別表彰であった。
平成29年(2017年)10月24日、日本棋院囲碁殿堂表彰委員会は正岡子規の囲碁殿堂入りを決定した。子規は囲碁にも造詣が深く、多数の漢詩、俳句、随筆等に囲碁に関係する作品を残しており、その内容が評価されたことに加え、今誕150年を迎えたことから注目されたものである。顕彰レリーフが制作され、日本棋院会館地下一階の「囲碁殿堂資料館」にて展示されている。
子規の囲碁に関する俳句には次のようなものがある。
- 下手の碁の四隅かためる日永哉
- 短夜は碁盤の足に白みけり
- 碁に負けて忍ぶ恋路や春の雨
- 真中に碁盤据ゑたる毛布かな
漱石の正岡子規評[編集]
夏目漱石『正岡子規』に「正岡の食意地の張った話」を述べている。中国から帰ってきた後、夏目漱石の二番町の下宿の1階に住み込んだ。「僕は二階に居る、大将は下に居る」と書かれている通り、1階を子規が占領し、2階を漱石が使っていた。漱石は「大将は昼になると蒲焼かばやきを取り寄せて、御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う」「殆ど毎日鰻を食ったのであるが、買える時になって、万時頼むよ、君払って呉くれ玉えといって澄まして帰って行った」とある通り、その頃の食事代は漱石が負担していた。「何でも大将にならなけりゃ承知しない男であった」と書いている。
子規の墓と句碑、展示施設[編集]
正岡子規は「静かな寺に葬って欲しい」と希望していたため、真言宗霊雲寺派の大龍寺(東京都北区田端4-18-4)に埋葬された。JR線田端駅より徒歩9分である。また、正岡子規句碑は正岡子規記念球場(東京都台東区上野公園5-20)のほか、台東区内に15個所、愛媛県、千葉県、神奈川県などにある。
正岡子規の業績を記念する施設には、松山市の子規記念博物館と東京都の子規庵がある。
著書[編集]
- 正岡子規(1914)『寒山落木』政教社
- 正岡子規(1913)『俳諧大要』籾山書店
- 正岡子規(1913)『俳人蕪村』籾山書店
- 正岡子規(1923)『竹の里歌』アルス
- 正岡子規(1898)『歌よみに与ふる書』新聞「日本」連載
- 正岡子規(1984)『病牀六尺』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(2002)『仰臥漫録』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(1993)『子規句集』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(2016)『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(1985)『筆まかせ抄』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(1984)『松蘿玉液』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(1923) 斎藤茂吉・古泉千樫(編)『竹乃里歌全集』アルス NDLJP:977984