蠟山政道
蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、行政学者、政治学者。お茶の水女子大学名誉教授。民社党の代表的な理論的指導者。
経歴[編集]
戦前[編集]
新潟県刈羽郡鵜川村(現・柏崎市)生まれ[1]。群馬県高崎市出身[2]。酒造家の父・蠟山政次郎と母・キチの間の長男として生まれる[3]。群馬県立高崎中学校、第一高等学校卒業[1]。1917年9月東京帝国大学法学部政治学科に入学[1]。吉野作造教授の普選研究会に参加[1]。1919年初め頃新人会に加入[1]。1920年7月東京帝大法学部政治学科卒業[1]。法学部助手に採用され[1]、小野塚喜平次に師事する[4]。1922年春に新人会OBの平貞蔵、三輪寿壮、嘉治隆一らと社会思想社を結成し同人となる[1]。1922年7月東京帝大助教授に着任し[1]、新設された行政学講座の初代担当者となる[5]。1928年10月東京帝大教授に着任[1]。1930年3月に社会思想社同人の松本重治、嘉治隆一、松方三郎らと同人組織として東京政治経済研究所を設立し代表となる(1935年3月解散)[1]。1925年に設立された太平洋問題調査会の会員でもあった[1]。1939年に河合栄治郎経済学部教授の著書発禁事件をめぐる大学側の処置に抗議して東京帝大教授を辞任した(平賀粛学)[6]。
近衛文麿のブレーンの1人であり、1933年に設立された昭和研究会の中心メンバーであった。雑誌『改造』1938年11月号に「東亜共同体の理論」を発表し、東亜共同体をめぐる論争の口火を切った。1941年大政翼賛会に入り、1942年4月の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)に推薦候補として群馬2区から立候補して当選した[6]。
戦後[編集]
敗戦後の1945年9月6日、戦争責任を感じて自発的に議員を辞職した。同月に中央公論社副社長兼『中央公論』主幹となったが[6]、1947年に公職追放、翌年に解除された[7]。1948年に政治教育協会を設立し、新憲法の普及、民主主義の啓蒙に努めた[6][8]。1954年~1962年民主教育協会会長[7]、1954年~1959年お茶の水女子大学学長、1962年~1965年国際基督教大学教授[5]、1965年~1973年同大学客員教授[7][4]、1968年~1979年東京都教育委員会委員長[7]。
政治的には民主社会主義を主張し、社会党右派、民社党の理論的指導者として活躍した。1951年12月の民主社会主義連盟(民社連)の結成に参加し、1953年12月まで初代理事長を務めた。1955年の社会党左右両派統一に際し、民社連の関嘉彦、和田耕作、中村菊男、河上民雄、藤牧新平らと「統一社会党綱領草案」(右社綱領草案)を作成[9]。1959年11月に民主社会主義新党準備会に綱領規約起草委員会が設けられ、猪木正道、木村健康、関嘉彦、土屋清、林健太郎、武藤光朗、和田耕作とともに諮問委員に委嘱[10][11]。1960年2月の民主社会主義研究会議(民社研)の結成を主導し、1966年1月まで初代議長を務めた。
社会思想研究会顧問(1946年11月~)、民主社会協会顧問(1950年~)[12]、全国勤労者文化協会(全文協)顧問(1955~1963年)[13]、日本労働者教育協会顧問(1956年9月~)、全国文化運動協会(全文協)顧問(1963年~)、財団法人民主社会協会初代会長(1964年4月~)、日本文化会議発起人(1968年6月)なども務めた[14]。中央教育審議会委員、日本放送協会番組審議会委員、国立教育研究所評議員[6]、憲法調査会委員[8]、資源調査会、国土総合開発審議会、地方制度調査会、行政審議会、気象審議会、都市交通審議会、水質審議会、臨時行政調査会等の委員・部会長など多くの公職を歴任した[4]。
1966年4月勲一等瑞宝章を受章[4]。1968年11月日本学士院会員[15]。1974年NHK放送文化賞を受賞[4]。1980年に84歳で亡くなるまで東京都教育委員会委員を務めていた[4]。
研究活動[編集]
政治学者の丸山真男は追悼の辞で「日本における近代行政学体系の創設者といっても過言ではありません」と評している。丸山によると、蠟山は英米の多元的国家論と独墺の社会学的国家論を批判的に摂取し、国家を含む諸集団に共通の政治的機能を導出しようというモチベーションを底流に有していた。『行政学原論』(1936年)では行政の概念構成を統治・生活営為・職務という基本的要素の三位一体として捉え、行政の権力的側面と管理的側面の接合を試み、戦後日本の行政学に大きな影響を与えた[4]。
行政学関係の著書に『行政組織論』(日本評論社、1930年)、『行政学原論』(日本評論社、1936年)、『英国地方行政の研究』(国土社、1949年)、『行政学講義序論』(日本評論社、1950年)、『行政学研究論文集』(勁草書房、1965年)、政治学関係の著書に『政治学の任務と対象』(巖松堂書店、1925年)、『日本における近代政治学の発達』(実業之日本社、1949年)、『日本における政治意識の諸様相』(勁草書房、1949年)、『比較政治機構論』(岩波書店、1950年)、『政治学原理』(岩波書店、1952年)などがある。著作集に『蝋山政道評論著作集』全6巻(中央公論社、1959-62年)がある。訳書にトインビー『歴史の研究』全3巻(社会思想研究会出版部、1949-52年)がある。
文庫化された著作には『よみがえる日本』(中公文庫、1974年)、『政治学の任務と対象』(同、1979年)、『国際社会における国家主権』(講談社学術文庫、1977年)、『ヒューマニズムの政治思想』(同、1977年)がある。
親族[編集]
弟はマルクス経済学者の山田勝次郎、外交評論家の蝋山芳郎、美峰酒類元社長の小山長四郎[3]。長男は政治学者の蝋山道雄、二男は生態学者の蝋山朋雄、長女は中央公論新社元会長の嶋中雅子[16]。
出典[編集]
- ↑ a b c d e f g h i j k l 吉田健二「東京政治経済研究所の設立と事業――戦前期の一社会科学研究所」『大原社会問題研究所雑誌』No.479、1998年10月
- ↑ 『日本の歴史 26 よみがえる日本 中公文庫』 hmv
- ↑ a b 近代高崎150年の精神 高崎人物風土記 - 山田 勝次郎 高崎新聞
- ↑ a b c d e f g 追悼の辞 日本学士院
- ↑ a b 世界大百科事典 第2版の解説 コトバンク
- ↑ a b c d e しまね・きよし「蠟山政道」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、1564-1565頁
- ↑ a b c d 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
- ↑ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 コトバンク
- ↑ 小山弘健、清水慎三編著『日本社会党史』芳賀書店、1965年、149頁
- ↑ 佐藤寛行「政党綱領物語(4)民社党篇(上)再び分裂、民主社会党結成へ」『改革者』第188号、1975年11月
- ↑ 朝日新聞社編『朝日年鑑 1960年版』朝日新聞社、1960年、196頁
- ↑ 中村菊男「蝋山先生と民主社会主義運動」『改革者』第68号、1967年11月
- ↑ 脇田由郎「教宣人生雑記-15-」『同盟』第252号、1979年7月
- ↑ 国民政治年鑑編集委員会編『国民政治年鑑 1969年版』日本社会党機関紙局、1969年、854-855頁
- ↑ 物故会員一覧 (50音順) ラ行 日本学士院
- ↑ 永井憲一「蝋山政道の人と生涯(覚書)」『法学志林』第94巻第3号、1997年3月