石井光次郎
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石井 光次郎(いしい みつじろう、明治22年(1889年)8月18日 - 昭和56年(1981年)9月20日)は、政治家、官僚、経営者。衆議院議長(第54代)、副総理。横綱審議委員会委員長。従二位、勲一等旭日桐花大綬章。シャンソン歌手の石井好子は次女である。久留米市名誉市民。
経歴[編集]
- 1889年8月18日、福岡県久留米市に生まれる。父は石井八十吉、母は石井若。父は石井光次郎が生まれた翌年に病死した、母は実家に引き取られ、後に再婚した。祖母のノブに育てられた[1]。
- 1896年、日吉尋常小学校に入学する(4年制)。喧嘩が強く、通信簿の行状だけは「乙」であった。
- 1900年、男子高等小学校に入学(3年制)。
- 1903年、久留米商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)に入学(5年制)。柔道部を作る。
- 1908年、神戸高等商業学校(現神戸大学)に入学する(修業年限は4年)。出光佐三は3級上であった。
- 1912年、神戸高等商業学校を卒業し、東京高等商業学校専攻部(現一橋大学)に入学する。
- 1913年、高等文官試験を受けて合格する。120人中、3番の成績であった。
- 1914年、東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部を卒業。卒業後は外交官を考えていたが、内務省に切り替え、7月に採用通知を受け取る。警視庁警部となり、最初は監察官付きから交通課長となる。大正天皇の即位式では、馬に乗り先乗を務める。
- 1915年、警視庁保安課長となる。そのとき正力松太郎は堀留署の署長であった。
- 1915年12月、台湾総督秘書官兼総督府参事官。3月に台湾赴任。下村海南から片腕にと請われたからである。
- 1918年4月7日、久原久子と結婚する。
- 1921年2月、1年間の欧米視察に出る。ホノルル、サンフランシスコ、ワシントン、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ポーランド、ウィーン、ベルギー、オランダ、スイス、ローマ、アルジェ、マルセイユを歴訪する。
- 1922年、朝日新聞社に経理部長として入社。経理組織を改革する。
- 1923年、関東大震災後、営業局長に就任する。数寄屋橋に新本社を建築する。
- 1945年11月、専務取締役で代表権のあった石井は戦争中の社業の責任を取って退任した。
- 1946年4月、日本自由党から福岡1区で衆議院議員に定員9名中8位で初当選。院内総務となる。
- 1947年1月31日、第一次吉田内閣で商工大臣となる(1947年まで)。4月、総選挙で再選。
- 1947年5月24日、GHQから公職追放になり、商工大臣を退任。
- 1950年、追放解除となる。
- 1951年、朝日放送初代社長に就任。
- 1952年10月、総選挙で当選し、政界復帰。10月30日、第4次吉田内閣で運輸大臣に就任。
- 1953年5月21日、第5次吉田内閣で、運輸大臣に再任(1954年12月10日まで)。海運の再建に注力する。
- 1955年、保守合同で自由党から自民党に参加する。
- 1956年8月、台湾を訪問し蒋介石総統と面会する。
- 1956年12月、総裁公選に出馬し、岸信介、石橋湛山とともに立候補し、1回目投票では岸が1位となり、石橋湛山(2位)、石井光次郎(3位)はが2位・3位連合を組んで決選投票を行い、石橋が総裁に当選した。石橋内閣の立役者であったが、第1回でトップになった岸を処遇するため、石井は副総理になれなかった。
- 1957年2月、第1次岸内閣で岸の依頼で副総理・国務大臣に就任した。
- 1960年7月、総裁選には池田勇人・藤山愛一郎・大野伴睦・松村謙三・石井光次郎の5名が立候補した。1回目投票では池田1位、石井2位となり、決選投票では池田が当選した。第1次池田内閣では党内結束のため通産大臣に就任した。
- 1962年11月、第8代日本体育協会会長となる。
- 1965年6月、第1次佐藤内閣第1次改造内閣で法務大臣に就任する。法務大臣で授与する立場になり、それまで断っていた勲章を受け、勲一等旭日桐花大綬章を受賞。
- 1967年2月、第二次佐藤内閣で衆議院議長となる。
- 1969年7月、衆議院本会議で健康保険法改正における強行採決の責任を取り、衆議院議長辞職。
- 1972年、政界引退。
- 1976年、横綱審議会の委員長となる。
- 1981年9月20日、死去。92歳没。
脚注・リファレンス[編集]
- ↑ 石井光次郎(1976)『回想八十八年』カルチャー出版